横須賀市汐入町二丁目。汐入小学校わきの山頂に汐留の文庫、別名を、測器庫という海軍施設があった。
土地の人は「天文台」と呼んでいた。ここにお住まいだった島森積(せき)さんに生前うかがったお話。
島森さんは明治十六年(1883)生まれで昭和五十年に亡くなられた。この連載では「海軍機関学校クラブ」
でご登場願った”海軍ぱあさん” のー人。
「この『天文台』には昭和二年にまいりました。今までの楠ケ浦から土地交換できました。サテどこへ、
山崎か深田かと迷いましたが深田は病院の跡…。結局ここへ。この上の道の両側は桜並木、それは美しいものでした。
一度で気に入りました。大震災で被害が少かつたのも魅力でした。レンガ造りの建物を生かしながら家を新築しました。
この辺りは『天文台』とか『文庫跡』で通じていました。番地がついたのは、のちのことです。当時はまだ、
やぐらが立っていて、風車のように風速計が回っておりました」
残念ながら「天文台」の資料は乏しい。ただ「気象百年史」(昭和五十年刊)に「海軍望楼」として、次のような記録がある。
海軍は、明治二十一年十二月に全国の要害の地に望楼を設置、二等測候所並に一日六回の気象観測を行つた。
海軍望楼の設置は二十七年六月、勅令第七十七号「海軍望楼条例」による。
気象観測や予報警報の掲示も業務のー部だつた。
望楼は、日露戦争後の三十九年には、全国で三十四カ所に達した。気象電報も発信されたので、それらが、中央気象台
の「印刷天気図」上に記入され始めた期日は、横須賀の場合、明治二十六年十月四日となっている。
潮ノ岬(和歌山県)のような天気予報上、重要な地点は中央気象台に移管されたが、大半の望楼は大正十年(1921)
六月に廃止された、という。
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