大正十二年(1923)九月一日の関東大震災で、横須賀市内に分散していた海軍施設も破壊された。
復興計画では、それらをーカ所に集めることにした。そのため、逆に当時の海軍用地(今の米海軍基地内)に取り残さ
れた民有地と土地交換する動きが出てきた。民有地は、横須賀市楠ケ浦と稲岡町のー部だったので、
この事業は「稲楠(とうなん)土地交換」と呼ばれた。
民有地は含計三万五千五百坪(十一万千七百平方b)、一方、市内の海軍施設は合計三万千百坪(十万二千六百平方b)だった。
この土地交換は大震災の翌十三年二月に海軍から提案された。市内に取り残された海軍用地とは、深田の海軍病院(今の市文化会館とその周辺)
をはじめ、次の場所である。
・公郷山崎の建築材料置場・平坂上三浦病院下の中里官舎・大津射的場のー部・深田官舎・中里の海軍病院分院・中里
官舎・汐留の文庫(側器庫)・汐留官舎・汐入官舎などの敷地。
十四年十一月の横須賀市議会は「海軍へのご奉公のために協力する」として承認された。
海軍のほうも、一般市民の認識と理解を求める声明を発表した。難問を乗り越え昭和二年四月、民有地
の提供は終わったが、海軍用地のほうは手続きが遅れたのみか、思うように売れず、売れても代金の徴収に支障を生じた。
ともかく四年六月、満五年を経て「稲楠土地交換」は幕を閉じた。
むしろ後日談のほうが長かった。というのは、このために横須賀市は多額の負債で苦しんだ。
事業の中心人物、栗田助役の急死、次いで石渡市長の辞職、次の岡田市長の発病…。善後策は小栗、高橋、
大井、三上の歴代市長に受け継がれ、小泉市長の時に市債の借り換えを断行、辛ろうじて市財政の痛手を切り抜けた。
楠ケ浦や稲岡町を去った人々の多くは今、横須賀市内の旧海軍用地にお住まいである。
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