石井 昭 著 『ふるさと横須賀』
横須賀幼稚園 @ 『健全ニ発達セシメ』 |
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豊島村の豊島小学校付属幼稚園に遅れること四年、明治二十七年(1894)に横須賀町にも 町立横須賀小学校(今の汐入小学校)に付属幼稚園が誕生した。 この園に三十年十月から三十三年五月まで、うら若き教師小林ユキが務めた。二年八カ月の体験で、幼稚園教育に生涯を かける基盤を培ったようだ。 ユキは明治十年三月生まれ。三十年十月に女子高等師範学校保母練習科を卒業(第一期生)、 付属幼稚園では月俸十四円だった、という。退職一年後の三十四年五月、改めて豊島小付属幼稚園に就職、 月俸は十五円。この時、横須賀小学校訓導の福本新吉と結婚、福本姓を名乗る。 ちなみに新吉は明治六年十月に三浦郡金谷(かねや)村(今の横須賀市金谷)で生まれ、鎌倉師範学校を卒業。 長井小学校訓導を皮切りに横須賀小、高等第一横須賀小を経て、三十六年十二月には尋常汐入小学校長(第十代)に。 時に三十歳だった。その後は尋常谷町、山崎、逸見、田戸各小の校長を歴任。退職後は、県立横須賀高女の事務官を務めた。 昭和十年四月に歿。横須賀市金谷の大明寺に眠る。 福本ユキが豊島小付属幼稚園に勤務中、町立横須賀小付属幼稚園が、小学校の都合で廃止となった。 ユキは、明治三十六年二月に園を退職するとともに、私立幼稚園の設立を神奈川県知事に申し出た。 「私立幼稚園設立認可申請書」の要点は、次の通り。 「設立ノ目的=本園ノ目的ハ年令満四歳以上、六歳未満ノ幼児ヲシテ其ノ心身ヲ健全二発達セシメ善良ナル習慣ヲ得セ シメ以テ家庭教育ヲ補フニアル。 名称=私立横須賀幼稚園 位置=三浦郡横須賀町汐留参拾弐番地 定員=六拾名 保育料=一人一ケ月五拾銭乃至(ナイシ)金八拾銭」 県知事からは設立認可が下りた。「神奈川県指令第二一七号 三浦郡衣笠村金谷二百三十八番地 福本ユキ。 明治三十六年二月二日願ヒ私立幼稚園設立ノ件認可ス 明治三十六年二月十六日 神奈川県知事周布公平」 |
横須賀小附属幼稚園の廃止後、豊島小付属を退職した福本ユキさんは、明治36年(1903)春、 横須賀幼稚園を郡役所跡に創設した。今の京急汐入駅の所である。写真は、開園のお知らせ=横須賀市本町3 ノ 9 鈴木綾子さん提供 |
横須賀幼稚園 A 『行在所跡地に移転』 |
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幼稚園設立の認可が下りた三カ月後、明治三十六年(1903)五月四日に開園。式は六月二十日、 今の汐入小学校敷地内にあつた町立高等第二小学校の校庭を借りた。職員は、園長兼保母の福本ユキ、 助手の中村ハル、鞆田愛の三人。園児は男子三十人、女子二十五人の計五十五人だった。 幼稚園の位置は、上町に移転した三浦郡役所の跡。横須賀市汐留三十二番地、のちの二十四番地。 今の京急汐入駅ホームの中心部一帯。汐入町二丁目一区町内会館、汐留会館前のー角に当たる。 昭和四年、当時の湘南電鉄(今の京急)開通工事が始まるまで、この地にあった。 その後は現在地の本町三丁目、向山(むこうやま)行在所跡に移転した。 郡役所跡地は約百三十坪(約四百三十平方b)だった、という。園舎は、畳敷きの保育室(十五坪)板敷きの遊戯室(三 十坪)のほか付添人侍合室、中廊下、湯呑(のみ)所、便所を含めて計七十五坪(二百五十平方b)。運動場は五十坪(百 六十五平方b)だつた。 運動場といえば、手狭のため近くの海軍用地二百坪(八百六十平方b)を借りることにした。 今の市勤労会館付近である。その時の借用願は 「地所拝借御願 一、海軍機関術練習所前御所附属空地。右ノ地所当幼稚園ノ運動場手狭二付キ拝借仕(ツカマツ)リ 度(タク)候間、此(コノ)段奉願(願イ奉り)候也。御所ノ指揮ハ堅ク相守り申スベク候也。 横須賀町汐留旧郡役所跡 私立横須賀幼稚園主 福本ユキ 明治三十六年五月二十八日 下士卒集会所御中」 二日後に回答がきた。 「御申越ノ運動場使用ノ件ハ機関術練習所練兵二支障ナキ限リハ御使用差支悪之(コレナク)候也。 明治三十六年五月三十日 下士卒集会所 幼稚園主 福本ユキ殿」 なお今、横須賀幼稚園に残る文書には「横海下士卒集会所」の角印が押してある。 機関術練習所は、今の旧EMクラブの所にあった。 |
写真は、明治37年春の卒業記念。 背景は、汐入尋常小学校に隣接していた谷町尋常小の校舎で、 時代の先端をいく洋服姿の男の子は、大井鉄丸市長のお子さん。写真の台紙には「相模国 横須賀 松岡写真館」とある |
横須賀幼稚園 B 『先生はあんどん袴』 |
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明治の初め横浜は山下町の草原に炭屋があった。この家がニ度も強盗にやられたので、 一家は炭俵に隠してあった五十円を持って横須賀へ逃げてきた。今の京急汐入駅の所、 当時の汐留のー角で八百屋を開店、金子八百屋と呼ばれた。 ここで明治三十年(1897年)、金子亀太郎さんが生まれた。横須賀幼稚園第一期生。 のちに横須賀の祭りばやしの草分けのー人。昭和四十三年に七十二歳で没。生前うかがったお話の中から。 「私の家の隣りに明治三十六年でしたか、幼稚園が開園されました。別に、おぼっちやんじゃなかったんです。 入園したきっかけは、こういう訳です町役場勤めの方が『亀ちゃんは四月生まれだからー年早く小学校へ上がれる』というの で、家じゆうその気でいたら『四月も月末生まれじゃ無理だ』といわれ入学はご破産。 『本人もその気でいたのだから今度できる幼稚園へやれば気がすむだろう』という親心で、入園と相成った次第でね。 そのころの幼稚園は制服などむろんなく、よだれや鼻汁のたれつ放しで着物のそでは光り、おでこはふやけていたねえ。 なにしろ、母親が『うちの子は鼻がたれるので体毒が出る』といって、喜んだものでした。 今の若いお母さん方には想像もつかないでしょう。昼めしを家へ食べに行く時、先生に『マンマを食いに行く、とい うものではありません』と注意されました。自分の親をトウチャン、力アチャンと呼ぶのは、上等のほうでした。 先生は皆あんどん袴(はかま)をはいていました。遊戯の時間は愉快だったね。 『つぽんだ、つぽんだ』で、先生はしやがむので袴が開き、『つぽんだと思ったら開いた』で立ち上がるので袴がつぽんだ・・・。 くだらないことは覚えているもんです。わずかー年間でしたが、私は横須賀幼稚園で、みんなと仲良く過ごすことを学びました。 今のお子さんにも、それを望みますね」 |
大正12年9月1日の大震災で横須賀幼稚園も被害が大きかった。さいわい園児は無事だった。 写真は、翌13年春の卒業記念。園舎の屋根は、ベラベラのトタン板で、まだ復興途中だった。 園児の洋服がふえた点に注目したい |
横須賀幼稚園 C 『町に補助金を申請』 |
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開園当初の明治三十六年度の経常費予算は。 歳入ノ部 保育料三百六十円(幼児一人月平均六十銭、五十人分) 歳出ノ部 幼稚園費三百六十円。内訳=給料百八十円(保母百二十円、助手四十八円、使丁十二円)。 雑給四円五十銭(旅費一円五十銭、諸手当三円)。需要費百七十五円五十銭(消耗品費五十四円四十銭、 通信費六十銭、雑費百二十円五銭)。雑費のうち百二十円は園舎の借り賃だつた。 やりくりに苦労した、とか。そこで。 開園三年後の明治三十九年二月、幼稚園主の福本ユキは、横須賀町長鈴木忠兵衛に対して補助金を申請した。 請願書の要点は次の通り。 「…設立ノ当時、保育料ハ監督官庁ノ認可ヲ得テ五十銭ヨリ八十銭マデノ範囲内ヲ以(モッ)テ納付セシメ、目下ノ処 (トコロ)園児在籍九十名ノ内ー七十銭ヲ納ムル者三、四名、六十銭ヲ納ムル者四、五名二テ、余り皆五十銭ノ最低額ヲ 納付致シ居り候次第二付キ現今ノ処、一般二八十銭宛(アテ)徴収スルハ当地ノ情況未ダ許サザル処二シテ誠二困却罷在 (マカリアリ)候。折柄(カラ)戦後ノ今日トナリテハ開園当時卜異ナリ諸物価騰貴ノ結果、校舎諸器機ノ修繕(中路) …如何トモナシ能(アタ)ハザル儀二付キ、当分ノ内、年額金壱百五拾円ノ御補助ヲ仰ギ益々改善ノ実ヲ挙ゲ以テ保育事 業二従事・・・(後略)」 二カ月後、町長から回答がきた。「経費補助請願ノ件左記各項ノ通り許司ス。 一、補助ハ明治三十九年度二於(オイ)テ年額金百八十円トス。町長ハ設備及ビ保育上二対シ意見ヲ陳示シ又(マタ)ハ改善 ノ命令ノ発スルコトアルベシ。 一、前項ノ命令二従ハザルトキハ補助ノ許司ヲ取消スモノトス。(後略)」 この補助金は、明治四十年の市制施行以後もしばらく続いた、という。 |
創立23年を迎えた横須賀幼稚園は隆盛のー途をたどった。写真は、昭和2年春の卒業記念。 その2年後、湘南電鉄(今の京浜急行)の開通工事のため、現在地の本町3丁目に移転した=市内本町3 ノ 9 鈴木綾子さん提供 |
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