石井 昭 著   『ふるさと横須賀』

豊島小附属幼稚園 『県下4番目に誕生』
原文
明治五年(1872)に公布された「学制」では、小学校の種類として「幼稚小学」を挙げ 「幼稚小学ハ男女ノ子弟六歳マデノモノ小学二入ル前ノ端緒(タンチョ)ヲ教ウルナリ」と定めた。 十四年、県下で初めての幼稚園が横浜山手のブリテン女学校に誕生。次いで十ハ年、小田原の幸学校に幼稚科、 横浜の横浜学校に幼稚園が。二十三年には県下四番目として、三浦郡豊島小学校に附属幼稚園が誕生した。 豊島村不入斗(いりやまず)学校の廃校後、その教室一棟を村役場の敷地内に移して開園したもの。 園の様子は、当時の「三浦郡管内学事ノ情況」によると「専(モッパ)ラ快楽ナル遊戯ヲナサシメ其(ソ)ノ間二於(オイ) テ唱歌、或(アルイ)ハ半紙ヲ以(モッ)テ折物ヲナサシム故二幼児ハ更二忌避スル等ノコトナク好ンデ出席ス。 設立日、尚(ナオ)浅クシテ末(イマ)ダ顕著ナル効験ヲ見ズトイエドモ家庭教育ノ不完全二比スレバ大二裨益(ヒエキ)アラン」
 そのころ学令未満の子供たちが早目に小学校へ就学する例が多かった。二十九年八月、文部省は各府県へ早期就学を取り締まるよう訓令した。 この訓令が、幼稚園の存在を高めるとともに、園の設立をふやすきっかけとなった。
明治末ごろは「幼稚園保育及ビ設備」で次のような基準があった。 ◆満三歳から小学校就学までの幼児対象「保育時間は一日五時間以上
◆保母一人の担当は四十人以内
◆一園は園児百人以内が原則。
ー話を戻そう。豊島小の附属幼稚園は明治四十年の市制施行後、市立高等女学校に併設、市立幼稚園に。 大正四年(1915)、三浦郡教育会から独立した横須賀教育会が経営に当たった。園長は代々、豊島小学校長が兼務した。 昭和十六年十二月、太平洋戦が始まる。やがて戦局が激化、園児の通園が困難となり、さらに教育会の組織変更などで、 約五十年の園は閉じられた。

原本記載写真
市汐入 明治23年(1890)に県下4番目の幼稚園が、豊島町の豊島小学校に誕生。 その4年後に横須賀町の横須賀小(今の汐入小)にも開園された。写真は、卒園証書=横須賀町5 ノ19 新井広延さん提供

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