石井 昭 著   『ふるさと横須賀』


中島三郎助 『浦賀奉行所の与力』
原文

敦公(ほととぎす)我も血を吐く思ひかな 滅びゆく徳川幕府に殉じた中島三郎助の辞世の句である。 浦賀奉行所の与力であった。 彼はペリー来航の時、単身で米艦に乗り込んだ。 だが、アメリカ側に「もつと高官でなければ応じられない」と追い返されてしまった。 その後、同じ与力の香山栄左衛門を高官に仕立てて折衝を始めた。 ペリーの「日本遠征記」には香山を奉行、三郎助を副奉行と書いている。 彼は米艦でウイスキーだと思ってオリーブ油を飲みほし、悠然としていた、という。 幕府が大型船建造に踏み切ると、彼は、わが国初の洋式船「鳳凰丸」を建造。 長崎に海軍伝習所ができると、一期生として学んだ。 明治元年(1868)に軍艦役となり幕府にひたすら尽くし、維新の時は、榎本武揚ら三千五百人とともに函館へ。 同志の榎本らは官軍に降伏したが、彼は五稜郭でニ人の息子をはじめ、浦賀出身の若者とともに戦死した。 時に四十九歳。長男の恒太郎はニ十三歳、二男の英次郎は十九歳。 父子三人の墓は扇の港といわれる、浦賀港を見下ろす東林寺にある。 三郎助は俳人でもあり号を「木鶏」と称した。 また、書に画に漢詩、短歌にも長じていた。 彼の紹魂碑は、西浦賀の愛宕山とも呼ばれる浦賀園にある。 明治二十四年(1891)に建立。 書は、かつての同志、のちの外務大臣榎本武揚の手になる。 三郎助のお孫さんは今、東京にお住まいである。
原本記載写真
中島三郎助は、函館の五綾郭(ごりょうかく)で、二人の息子とともに戦死した。 写真は、浦賀港を見下ろす東林寺境内に建つ、中島三郎助の墓(横須賀市東浦町)。 史跡めぐりで訪れる人が絶えない

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