沖を行く船の目安は、昼間は武山、大楠山、鷹取山などの山頂や長井台地などの森林。
夜は星や灯火の明かりである。
その明かりのひとつが、西浦賀町の先端、川間の灯明堂だった。
潮風をまともに受けて今、その石積みが残っている。
かつては、石積みの上に二階建ての小さな建物があり、階下は番人小屋、階上は障子に金網をめぐらして中
に灯火皿を置き、暗くなると菜種油をともした、といわれる。
それが慶安元年(1648)から明治五年(1872)までのニ百二十四年間、浦賀水道を行く船の航路標識の役を果たした。
しかし、そのー方、慶応二年(1866)五月に、幕府がイギリス、フランス、アメリカなどと改税約定を結んだ結果、
三崎と観音崎に灯台を建設することになった。
観音崎灯台の場合、明治元年(1868)八月から工事が始まり、翌二年一月一日に点灯された。
灯台は「横須賀製鉄所」と記したレンガ六万四千五百個と大量の石灰を使い、四角い白塗りの建物、レンズはフランス製。
わが国初の洋式灯台だったが、今の建物は三代目である。今なお、沖を行く船の頼みの綱として、航海の無事を祈りつつ光を放つている。
この灯台が、映画「喜びも悲しみも幾年月」のロケ地になったのは、こ存じの通り。
今でも、海が荒れたあとなど波打ち際で、建設当初のレンガのかけらが発見される、という。
明治はそれほど遠くない。
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