石井 昭 著 『ふるさと横須賀』
さいか屋 @ 『先祖は紀州の雑賀』 |
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「明治五年ーそれは横須賀の黎明期(よあけ)、その秋十月 元町に 紺の暖簾(のれん)をかけて ささやかな呉服屋 が生まれました それが さいか屋の誕生でした。横須賀で最初の呉服屋 浦賀の出身で その祖先は紀州の雑賀(さいか) それで さいか屋と申します。 横須賀の歴史と共に さいか屋の歩みが始まりました(後略)」 ーこれは昭和三十五年の創業八十八周年の折、さいか屋横須賀店の店頭に掲げられた当時の社長、岡本伝之助氏の言葉である。 さいか屋の「さいか」は紀州(今の和歌山県)和歌の浦に近い「雑賀の庄」の地から起こった。万葉集には「狭日鹿浦 (さひかの)」「左日鹿野(さひかぬ)」とある。 歴史をひもとく。古くは源平合戦のころ、舟を持たぬ源氏に味方した雑賀党は、壇の浦まで奮闘。源頼朝が鎌倉幕府を開いた折、 雑賀党は源氏に従って鎌倉周辺へ。その多くは、三浦半島に落ち着いた、という。戦国時代では、雑賀党は織田信長に抵抗、 石山本願寺の助つ人として奮戦。のちに徳川家康に加勢したため、豊臣勢の紀の川の水攻めに遭つた。 当主は代々、孫市と称した。「雑賀の庄」の領主以後は、雑賀氏を名乗る。それ以前は鈴木氏、その源は穂積(ほずみ)の姓だった。 このような先祖を持つ岡本家は、紀州から当時、栄えていた東浦賀に移り住んだ。本家の二男で、母方の岡本姓を名乗 る者が代々、伝言と称した。伝言は八代まで続き、おもに家業は回船問屋、干鰯(ほしか)問屋。 東浦賀に住み始めたのは顕正寺の墓碑からみて享保二年(1717)以前。 その後の墓所は対岸、西浦賀の東福寺にある。享保五年、浦賀奉行所が西浦賀に設けられたので、多くの店とともに東から 西へ移ったため、といわれる。 大小を問わない。店には魂がある。屋敷に脈々と流れる家風があるように、商いの場には人々の哀愁がこもり、その時代の歴史がそこ、ここに刻まれていく。 それは、店を動かす人々や訪れる客を問わずに引き継がれる。しばらくは「さいか屋」を語ろう。 |
横須賀市大滝町にある「さいか屋横須賀店」 は、明治5年(1872)浦賀から横須賀の元町(今の本町)に進出したのが始まり。 写真は、明治43年当時の全店員15人。2列目の中央が支配人の永島延吉さんである |
さいか屋 A 『本町のー角に進出』 |
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「店祖、伝兵衛は弘化二年(1845)十二月十五日、八代目伝吉と、その妻たきとの間に生まれ、 幼名を喜久蔵と称し、二男三女の長男として育つた」と「株式会社横須賀さいか屋史」(昭和三十九年刊)にある。 伝兵衛は、万延元年(1860)十五歳の時、西浦賀の高砂屋呉服店へ丁稚(でっち)奉公。だが、 過労で病床の身となる。治療に当たったオランダの医師ライスから「身を立てるなら呉服唐物屋を開業し給え。必ず成功する」といわれた。 全快した伝兵衛は蓄えた二十五両を資金に独立した。 父親の伝吉は、伝兵衛のために筆をしたためた。 「定(さだめ) 一、御客様より御誂(あつらえ)物有之(これあり)候節、御手附半金申請(もうしうけ)御仕立可仕(つかまつるべく)候、 卯六月(慶応三年)」 伝兵衛は明治二年(1869)三月、公郷村七百五番地の名主、石渡吉衛門の三女サクと結婚した。 石渡家は三浦半島でも知られた名家だった。明治五年十月、伝兵衛は将来を見越して海軍でにぎわい始めた横須賀へ進出。 浦賀は妹のかねに譲る。横須賀では今の本町のー角、磯崎にあった妻サクの兄、石渡治郎右衛門が持つ長屋で開店。 店員は能元虎松、永島延吉の二人。十一年に同じ磯崎に店を新築したが、二年後に類焼の目に遭った。 だが、奮起一転、新たに土蔵二階建てを造った。二十七年二月、養女いくに横浜に住む岡本伝右衛門の三男、清次郎を迎えた。 二年後の二十九年十一月十七日に生まれたのが伝之助、先代の社長だ。 豊島村中里九十四番地、今の上町二丁目十四番地で産声を上げた。 初孫に恵まれた伝兵衛は商売に打ち込んだ。勤勉家でもあった。東京の霊岸島と横須賀の小川町海岸を行き来する 「田浦丸」の荷揚げ人足は、「ホイッ、岡本伝兵衛は、茶の袴(はかま)、茶の袴」と掛け声をかけた、という。 |
店祖の伝兵衛は初孫に恵まれ、よりいっそう商売に打ち込んだ。その孫が、事実上の二代目、岡本伝之助さんである。 写真は、大正5年(1916)元町時代の全店員。2列目左から3人目が伝之助さん |
さいか屋 B 『繁栄を富士に祈る』 |
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店祖の伝兵衛は、幼い伝之助と店員を連れて中里(今の上町)から元町の店へ通った。途中、 緑が丘の山道「小屋の台」から富士山を礼拝、店の繁栄と伝之助の成長を祈つた、という。 二代目の清次郎は、家督を継がずに亡くなったので、三代目の伝之助が家業の上では二代目の形となった。 当時、元町の道幅は三間(五・四b)。土蔵造りの店の間口も三間、右隣りに間口二間(三・六b)の低い土蔵もあった。 いずれも二階建て。店の表にはのれんをかけ、外にはガス灯といっても実際は石油灯が。 夕暮れ時、ガス灯屋が脚立を担いで灯をつけて回った。商品は左右の戸棚や番頭の席の後ろにも積んだ。 上等物とかさぼる物は、そのつど蔵から運び出した、という。 元町や旭町は横須賀の商業の中心地だった。元町には宮島玩(がん)具店、清田牛肉店、栗田薬局、下妻(しもづま)肉店、 藤原荒物屋、三富屋旅館、田中屋銘茶・糸店、今井豆腐店などがあった。 旭町には大忠呉服店、広瀬時計店、飯田屋酒店、大村洋品店、江戸屋菓子店、岩倉帽子店、高須写真館なども。 伝兵衛は店員よりも朝早く起き、夜は最後に夜回りを済ませて寝た。明治三十四年(1901)二月分の店員の給料は 次の通り。 永島延吉十四円、能元虎松十四円、斉藤辰蔵十二円、山本泰治郎二円五十銭、萩原介造二円、岡本幾久茂七十銭、 三木熊吉七十銭。「開店当時は浦賀の店との品物の交流が激しく、重い荷物を背負って、ー日二往復もするほどだった」という店 員の話が残る。 そのニ年前の明治三十二年四月に、二代目の清次郎が亡くなった。二十九歳だった。 次いで三十五年十一月には、伝兵衛の妻サクも五十歳で亡くなった。あとを追うように伝兵衛自身、三十八年十月に死去した。 六十歳で、伝之助が九歳の時だつた。法名は清真院伝翁良道大居士・サクは清荘院貞樹妙錦大姉。 ともに横須賀市緑が丘の良長院に眠る。 |
明治から大正にかけて今の国道16号は5b半の道幅だった。沿道の元町や旭町(ともに今の本町)は 海軍工廠(しょう)に近く、横須賀の商業の中心地だった。写真は、大正6年に元町で新築された「さいか屋」の店舗 |
さいか屋 C 『最大の危機迎える』 |
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横須賀の町とともに「さいか屋」は隆盛のー途をたどり始めた。だが、店祖の伝兵衛、サク夫妻と二代目の清次郎が 続いて亡くなったあと、清次郎の妻いくも明治四十年(1907)四月に、夫と同じ二十九歳の若さで生涯を閉じた。 いくは公郷村の石渡家の出、早くから岡本家の養女となる。 石渡家といえば伝兵衛、清次郎の二代と縁組みした家柄。三浦半島の名家で当主の養泰(つねやす)は十六代目。 天保七年(1836)生まれで幕末は名主。 維新後は横須賀の連合戸長、県会議員を歴任、明治三十九年七月に没。 ちなみに、十七代目の担豊(やすとよ)は清次郎の妻いくの実兄で慶応元年(1865)生まれ。 のちに三浦都豊島町長、横須賀市会議長、県会議員を歴任、さらに第七代横須賀市長に。昭和十二年二月こ亡くなった。 話を戻そう。伝之助は明治四十二年四月に豊島尋常高等小学校から県立第四中学校(今の県立横須賀高校)に進学。 その時の校長は吉田松陰の甥(おい)、のちに吉田家を継いだ吉田庫三(くらぞう)。 その薫陶を受けた。伝之助が中学三年生の時に店の支配人、永島延吉が四十七歳という働き盛りで亡くなった。 彼は伝兵衛時代の店風を守り続け”愛店の精神”を高めた人。 墓は横須賀市佐野町の妙栄寺にある。 支配人の急逝は「さいか屋」にとって最大の危機だつた。伝之助は四年生に進級した時、退学を決意する。 店に専念するに至った理由は「亡き祖母がわずか四、五歳だったころの彼に店の財産をー切、継がせたその心情が心にしみ込んでいたため」といわれる。 世は、明治から大正となる。伝之助は「さいか屋」の発展に精進した。大正三年度の決算をみると、売り上げが 十八万二千七百五円五十三銭。そのうち純利益は、十七%の一万六百三十二円という業績を上げた。 |
明治から大正にかけて「さいか屋」 は発展の一途をたどり、大正3年度の純利益は、当時の金額で1 万円を超えた。 だが、大正12年9 月 1 日の関東大震災で大被害に遭った。写真は、炎上する「さいか屋」 の周辺 |
さいか屋 D 『大震災で店舗焼失』 |
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海軍工廠(しょう)のガントリークレーン延長のために「さいか屋」はやむなく立ち退くことになり、 元町から近くの旭町に移転した。時に大正九年(1920)だった。 旭町への移転については「株式会社横須賀さいか屋社史」(昭和三十九年刊)に、こう書かれている。 「…開店後僅(わず)か二年で、いずれかに移転しなければならない運命に立至つた、さいか屋であった。 この当時の市勢は海軍の増強と、工廠の拡充に伴い目覚ましい発展ぶりで、これに従ってその中心は元町、 旭町辺りから次第に大滝町、若松町方面に移行しつつあったので、伝之助は移転先として専ら、その方面を 物色(中路)、平坂下方面の土地家屋の買収を試みたが遂に不調に終わった(後略)」 やむをえず旭町の大忠呉服店跡に移転した、という。現在の横須賀市本町、のちの横浜銀行横須賀支店の所だつた。 関東大震災までの三年間、旭町時代が続く。旭町の店は、北が旭町通り(今の国道16号)で間口八間(十四・五b)、 南がドブ板通りで間口六間半(十一・七b)、奥行き二十六間余(約四十七b)の長方形。 双方を入口とした。この通り抜けできる店構えが当時の市民に好評で、「さいか屋」のイメージを高めた、とか。 この店が三年後(大正十二年九月一日)の大震災で全焼してしまった。損害額は商品を含め約四十万円。 入店したての少年店員、板倉千代吉が港町(今の汐入町)のがけ崩れで亡くなった。「さいか屋」ただー人の犠牲者だった。 大震災直後のエビソードは多い。店主、岡本伝之助は復興五カ年計画を立て、店員と打つてー丸、火の玉となつて頑張った。 また、店員も「当分の間、俸給を半額とすることを非常時当然の措置として申し合わせた」という。 この意気込みで大滝町十五番地、今の大滝町一丁目十番地の現在地にバラックを建てた。廃材や焼けたトタン板を使った間口六間(十一b)、 奥行き三間(五・五b)の建坪十八坪(六十平方b)の仮店舗だつた。 |
震災後のバラック建てに仮店舗を増築。横須賀市大滝町の現在地である。写真は、その増築した正面。 当時の商標、綿の花と葉をリボンで結んだ「カクサ」が見える。 今の「マルサ」 は昭和28年からである |
さいかヤ 屋 E 『株式会社へと発展』 |
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大正十二年の関東大震災後「さいか屋」は旭町(今の本町)から大滝町の現在地へ移り、 バラック建て仮店舗で、営業を再開した。全店挙げての努力が実り、震災復興五力年計画が早めに達成された。 そこで、昭和三年三月に合名会社を株式会社に改め、資本金を五十万円とした。 社長に岡本伝之助、取締役は三木熊吉、荒井銀蔵、監査役に岡本あい子、和泉沢(いずみさわ)福太郎が選任された。 株式は、岡本家と店員のほか、お客百人を加えー人十株とした。店とお客の一本化を目指す「雑賀屋百福会」の発足をみた。 この点を、横須賀店長の岡本達彬(みちあき)さんは、こう語る。 「昭和初期としては画期的なことでした。この『百福会』は他人の資本をただ集めるだけではなく、 客観的な経営をやろうという発想から生まれたものです」 「百福会」には、石渡直次、石渡担豊、 長浜顕達、久保田清吉、山本小松、小泉岩吉、荒井惟俊、綾部粂信、榊原初太郎、世安甚蔵、鈴木角次郎ら皆さんの名がみえる。 大滝町の現在地に、木骨鉄綱コンクリ−ト造りの三階建て延べ四百三十坪(千四百二十平方b)の店舗が完成。 昭和三年十月三日、盛大に開店となる。「さいか屋」前の東郷通りは連日、人の波。 「横須賀市震災誌附復興誌」(昭和七年刊)には、こう描かれている。 「この通りは旧来から軍港一の繁栄地で市内商店街の中心をなし、車馬、自動車の往来頗(すこぶ)る頻繁(ひんぱん) である。沿道両側の商店、銀行等も震災後、競って店舗の改築を図り(中略>、デパート雑賀屋に至つては軍港の三越、 白木屋と称すべき厖(ぼう)大なる店舗を有し、街の片側を圧するの観がある」 二年後の五年十月に旧横須賀郵便局を改造、徳用品市場を設けた。今の横須質信用金庫本店の所である。 さらに翌年三月、戦前派には、昔なつかしい「さいか屋十銭ストアー」が誕生。今の不二屋菓子店の所である。 |
昭和3年に株式会社となり資本金は50万円に。客観的な経営を目指す「百福会」も発足した。写真は、新装なった3階建ての店舗。 大通りは戦前「東郷通り」、今の三笠銀座は「三笠通り」と呼ばれた |
さいか屋 F 『道一筋64年の吉永氏』 |
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明治五年(1872)に浦賀から横須賀へ進出した「さいか屋」は今年で創業百十二年を迎えた。 そのうち六十四年間、呉服一筋の吉永与三郎さん(七七)にご登場願おう。 明治四十年七月生まれで、横須賀市坂本町二丁目に在住。つい最近まで五階の高級呉服部にお務め。 吉永さんは大正九年に滋賀県神崎郡の山上尋常小学校を卒業。自宅近くに当時「さいか屋」に務める先輩三木熊吉の実家があった。 お話をうかがった。 「卒業直前に三木さんが来校され『さいか屋』へと宣伝されたのです。学校からは私で六人目でした。 当時の店は元町、今の東京靴下の近く。店員は正店員が約二十人、女店員が五人でした。呉服専門でしたが、 海軍士官用のワイシャツは扱っておりました。 岡本社長のお屋敷の下、今の市立図書館の近くですが、従業員の寄宿舎がありました。初めのうちは、隊列を組んで出 勤したものです。寄宿舎は白浜、稲岡と移り、旭町時代は今のドブ板通りにある浜勇果実店の所です。 一階は仕入れ部で二、三階が寄宿舎でした。 子僧時代のー日は朝七時に起きて店は八時半から夜七時まで。閉店後は大変でしたね。今と違って呉服の付属品づくり をしました。月にー回の定休日は午前中、精神訓話。呉服商組合長を兼ねていた伝之助社長が、市内各呉服店の店員を集め て開きました。その日の午後だけが自由でした。 話は飛びますが数年前の春、私の勤続六十年記念の呉服販売会を開いて下さいました。お客様はありがたいです。 先代社長のなされたことや、お言葉が身にしみます。心の支えです」 お客の中には三代目という人も。「無理売りはいけない。呉服は見るだけでも、デパート地下の食品売り場でおかずを買 って下されば・・・。『さらし三尺がお得意さん』といわれた先代のお言葉通りです」 先代を語る吉永さんの目はうるむ。うかがったのは「さいか屋」八階。窓外は夏の日差しに映える横須賀新港。 その変わりようを背景に、変わらぬ道一筋のひたむきさに、心を打たれた。 |
「さいか屋」で66年間も、呉服売りー筋の吉永与三郎さん=横須賀市坂本町=のお話は尽きない。写真は、 昭和15年の紀元2600年祝賀記念。右上は吉永さんの心の支え、先代の岡本伝之助社長 |
寄稿・補稿欄 |
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参考文献・資料/リンク |
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