石井 昭 著   『ふるさと横須賀』

向井正方夫妻墓 『三浦半島に縁深く』
原文
京急大津駅わきの踏切を渡って、大津小学校前を左折すると信楽(しんぎょう)寺がある。その手前を右へ。 小道ながら山を越えると馬堀町一丁目、竹沢の貞昌寺へ出られる。この小道の頂上から、さらに右へ行けば草深い中に笠塔婆(ば)型の墓がニつある。 向かつて右は向井正方、左はその夫人の墓。正方の基は笠の部分がーb、塔身がー・三bの高さ。幅が六〇a四方、 台座が三座でーb。全体の高さは三・三bだ。その前に高さ四十二aの「大通院殿が花水入」が置いてある。
正面には「俗名者向井将監正方、大通院義山浄節居士、相州三浦之郡数箇所領主」、右側面には「向井左衛将監源忠勝五男」、 左側面には「延宝二申寅歳七月十日」と銘がある。
夫人の墓は、笠の部分が九十八a、塔身がー・二b。幅が五十四a、台座は同じ三座でー・一b。全体の高さは三・二bだ。 その前には高さニ十六aの「霊徳院殿宝前水鉢」も。正面には「服部氏従五位下玄蕃頭源冬次息女、霊徳院心鑑自照大姉、向井氏将監源正方内室同式部少輔正盛母」とあり、 左側面には「寛文拾庚戊歳九月十四日逝去」とある。 向井正方は、大阪の冬や夏の陣で活躍した徳川方の向井忠勝の五男。正方は、兵部とか将監とも称した。 寛永十八年(1641)に父の所領六千石のうち千石を分けてもらい、御船奉行や伊豆、三浦の海防の功績により寛文二年(1662)二千石となつた。 知行地は、三浦郡のうち大津、森崎、小矢部、金谷、池上、不入斗(いりやまず)の各村。百人の水手(船頭)を預けられ、浦賀氷道の警備も務めた。 正方の祖父、正綱は武田氏の家臣、徳川氏に仕え三崎で海防の役を引き受け、江戸防備に当たつた。従って正綱、忠勝、 正方、さらにその子、向井式部少輔正盛と代々、三浦半島に縁が深い。 一方、夫人は服部冬次の娘だが、正方より四年早い寛文十年(1670)に没した。  近くの貞昌寺は、正方が母の貞昌院高雲素閑尼の追悼のために再建した、と伝えられる。

原本記載写真
江戸時代の初めころ海防の役を引き受け、江戸防備に当たったのが向井将監正方。 横須賀市馬堀町の貞昌寺は、正方が母の貞昌院高雲素閑尼の追悼のための再建されたもの、と伝えられる。 写真は、市内大津町3丁目にある正方夫妻墓

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