石井 昭 著   『ふるさと横須賀』

大震災復興計画  『ろうそく囲み協議』
原文

 「開港以来六十年、市制施行以来二十年、戸数は二万を数え人口十万になんなんとする震災時でさえ、市内唯一の幹線 道路はわずか三間(五・四b)ないし五間(九b)の幅員に過ぎなかった」とは、「横須賀百年史」(昭和四十年刊)にある文章だ。  大正八年(1919)に横須賀市に発布された都市計画法の原案をもとに、震災後、復興計画が始まった。 旗印は「自然の暴虐を征服して近代都市横須賀を建設せよ」。
復興会の会長には、市長に内定していた奥宮衛(まもる)、顧問には代議士の小泉又次郎ら。 初の会合は大震災の翌月、十月八日に深田台の横須賀高等女学校でろうそくの火を囲んで開かれた。
協議され、やがて実施された点は、次の通り。
▼道路の整備 横須賀駅からの国道は直線に。途中にあった軍需部は田の浦に移転。 原案通りに平坂下までは十五間(二十七b)の幅となった。そのほか、下町から浦賀や三崎へ、汐入の長源寺坂から 中里(今の上町)へ、汐入から坂本を経て葉山などの道路が整備された。
▼住宅対策 建築資金の貸付は総額二百十九万円、戸数は八百三十一戸に。資金はー棟七十坪(二百三十一平方b)以内とした。
▼学校の増改築 田戸、汐入、坂本、豊島、逸見、沢山、鶴久保、山崎、諏訪の九小学校で、総額七十四万九百九十九円。 昭和五年末までに完成した。
▼市庁舎 大滝町の埋め立て地に鉄筋コンクリート耐震式で。昭和四年六月に完成、工事費は三十七万五千円。 総延べ建坪は千二百四十坪(三千三百八十平方b)
▼警察署 平坂途中にあったが現在地へ。総延べ建坪百六十五坪(五百四十五平方b)、二階建て。
▼その他 郵便局が大滝町通りから現在地へ。公益質屋が安浦町と逸見町に。 逸見、坂本、公郷にあった火葬場が坂本一カ所に。
 今の臨海公園前、港町の崩れた土砂で小川町を埋め立て、工費約四万円で隣保会館が建てられた。のちの市民会館、 今の市文化会館のような役をはたした。
原本記載写真
近代都市横須賀の建設を目指した復興計画では、まず道路の整備問題が取り上げられた。 そして、市内各地こ遭難者の供養塔も建てられた。写真は、横須賀市汐入町1丁目、港町公園の大震災遭難者供養塔。 毎年9月1日には慰霊祭が行われる

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参考文献・資料/リンク
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