石井 昭 著 『ふるさと横須賀』
山中 @ 『人糞を馬力で運ぶ』 |
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「大正九年から終戦まで二十六年間、横須賀線で東京にあった工場へ通いました」と語るのは、横須賀市山中町百四番 地にお住まいの鈴木平八さん。明治二十九年生まれのハ十八歳。れっきとした山中の生き字引。お話をうかがった。 「横須賀駅へは『下の道』で塚山公園を越え逸見へ下りました。別に『馬道』と呼ぶ道、そっちは葉山の木古庭(きこぱ) や山口の人たちが、田浦方面から人糞(ぷん)を馬力で運んだものです」 この里は昔、三浦郡逸見村字山中。逸見村は明治二十二年(1889)に横須賀町と合併。昭和二十五年の町界町名地番整理で山中町となった。 面積は七十六万四千平方b、八割は山林とか。百九十番地まである山中町の現在の戸数は十九戸。 明治の初めは七戸だった。屋号は「ヒコエモン」「ショウベイ」「タキゾウ」「サヘイ」「ヤエモン」「ゴエモン」「トウザイモン」。 そのうち現存するのは四戸、あとの大半は分家である。 平八さん宅は「ヤエモン」である。江戸時代、交代する浦賀奉行の行列がー休みした家だった。再びお話を。 「江戸を出た行列は、金沢、船越、十三峠、山中、木古庭、阿部倉を通つて浦賀へ。うちの次の休憩所が阿部倉の『ヘイマ』と呼ばれた梶ケ谷さんのお宅でした」 「私の祖父は弥右ヱ門。大正三年に七十五歳で亡くなったが、読み書きそろばんはむろん、物知りでした。 自慢話は『おれはこれでもぺりー来航の時、腰にー本差して浦賀へ駆け付けたものだ』でした」 「ヤエモン」の分家、山中町六十五番地の徳永嘉一さん(五六)は「私の母親アイは大正の末、今の横浜市金沢区の釜利谷 から山中へ嫁に来ました。今の国道16号は山越えでしたので、金沢八景から吉倉まで渡し船、吉倉からは塚山公園を越え て来た、と話してました」と語られる。 |
横須賀市山中町は、かっては三浦郡逸見村字(あざ)山中。明治初めまでは戸数7戸、現在は19戸。たたずまいは、 横横道路の開通で、だいぶ変わった。写真は、昭和11年2月の葬式風景=市内山中町104 鈴木平八さん提供 |
山中 A 『山越えの学校通い』 |
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横須賀市山中町の「ヤエモン」のあるじ、鈴木平八さん(八八)のお話は続く。 「ご健在なら今年、百十歳になるでしょうか。『サヘイ』のじいさんの話ですが。 三浦郡の総名主、永島庄兵衛が山中へ来て、上納米の割り振りをしたそうです。 その立ち会いの近くで遊んでいたら『割りの最中だ、ふざけちゃいけねえ』としかられた、とか。 祖父の弥右衛門は山中、木古庭(きこば)、山口の炭を買い集めては江戸へ売りに行きました。炭俵を馬に積んでは『馬 道』から十三峠を越え、今の田浦泉町に下り長浦から舟で・・・唯一の現金収入だった、と聞いています」 平八さんの奥さん、テルさん(八一)に加わっていただく。「大正になってから、逸見に高橋孫作というお医者がおりまし た。夜中でも塚山公園の山を越えて往診して下さった。便いっ走りでお迎えに行ったものでした」 山越えといえば、子供たちにとつても学校通いの関門。テルさんは、明治から大正にかけて逸見小学校や今の緑が丘に あったハ幡山高等小学校へ。「朝夕、山越えでした。ほうばの下駄(げた)をはいて、雨の日は唐傘を差して・・・」と、なつかしむ。 テルさんの長女、千代子さん(六一)は教職の身にあった人。「小学校入学以来、教員になってからも朝夕、山越えでした。 昭和三十六年ごろ池上トンネルが通れるようになったので、ホッとしました」 千代子さんのいとこ、山中町六十五番 地に住む徳永嘉三さん(四六)にもうかがった。「私は昭和十九年に逸見小学校へ入学しましたが、山中からは私一人。しかも 三年生以上は集団疎開でいませんでした。塚山公園越えで足腰が鍛えられたためか、坂本中学校ではマラソンで張り切りました。 朝、母に買い物を頼まれ、逸見町の鹿取屋商店や加藤青果店で買い物をして、家へ帰ったものです」 |
横須賀市山中町は、最近まで文字どおり山の中だった。買い物は、塚山公園を越えて西逸見町へ行ったという。 写真は、 5人の子供たちによる百人一首 (昭和15年1 月)=市内山中町104 鈴木平八さん提供 |
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