石井 昭 著 『ふるさと横須賀』
会津藩士墓 @ 『幕末の江戸湾守る』 |
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江戸湾(今の東京湾)の近海に外国船が出没し始めた幕末。幕府は江戸防備のため会津(あいず)藩(福島県会律地方) に海岸警備と大筒台場(のちの砲台)つくりを命じた。百七十四年前の文化七年(1810)のことである。 会津藩主は七代目の松平容衆(かたひろ)。まだ三歳だったが、会津藩は陣屋を浦賀、観音崎、三崎の北条山に設け、 台場を観音崎、浦賀の平根山、城ケ島などに築いた。家老の西郷頭母(たのも)や田中志摩のもと、原田文助を番頭に武士 約六百人を配置した、という。 会津からの道のりはハ十余里(約三百二十`b)。藩士は家族連れで来た。学問に熱心な会津藩のこと、観音崎に養生館、 三崎に集議館という藩校を設け、子弟の教育に力を入れた。 滞在中、病死する人も。墓は、福島県人による三浦半島会津藩士顕彰会の星正夫さん=横須賀市平作六丁目=の調査に よるとハ十四基。内訳は、横須賀市鴨居の西徳寺十一基、能満寺十基、腰越墓地二十三基、走水の円照寺六基、三浦市の 城山墓地二十六基、大椿(ちん)寺七基、西福寺一基である。 横須賀市が、昭和五十八年度に土地買収したのが鴨居の腰越墓地。鴨居三丁目の山腹にあり、バス停は「腰越」が近い。 墓は約百六十平方bの平地にニ十三基も。文化二年(1805)から文政三年(1820)の間のもので、墓碑の銘は 次の通り(◇は字が不明の所)。 松永包修女、井形親民(文化二年)、井形親民妻、斉藤忠樹、石山紀知母(九年)、 上崎忠雅赤子、鈴木玄斎、紀宗方(十年)、松永包直、栃木勝美三男、◇原善明(十一年)、 松永包直女、紀宗美女、梁田貞成、釈幼清、石川伝八娘(十二年)、上崎忠世(十三年)、 栃木勝美(十四年)、中川重方(十五年)、田中興休妻(文政元年)、土屋文姫、狩野純信(三年)、田中興休孫(不明)。 |
幕末、江戸湾口の海岸警備のために会津藩士が三浦半島にやって来た。滞在中、病死した藩士や家族の墓が今、 84基も残っている。その保存に多くの人が奉仕している。写真は、その代表的な腰越墓地=横須賀市鴨居3丁目の山腹 |
会津藩士墓 A 『台場づくりに励む』 |
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三浦半島の海岸警備を会津藩が受け持つたのは、文化七年(1810)から文政三年(1820)までの十年間だった。 その後は、川越藩が天保十三年(1842)から弘化四年(1847)まで務め、次いで、彦根藩が千代ケ崎や荒崎な ど九ヵ所に台場(後の砲台)を築いた。嘉永六年(1853)になると長州藩が受け持った。その時、桂小五郎(のちの木 戸孝允−こういん、当時二十一歳)、伊藤俊輔(のちの博文、当時十六歳)らが加わっていた。さらに安政五年(1858) に熊本藩、続いて佐倉藩が警備を引き継ぎ、明治を迎えた。 ついでに触れておこう。会津藩が、再び海岸警備を命じられたのは、弘化四年(1847)から安政六年(1859) の間。三浦半島ではなく房総半島の警備、次いで、品川の台場(砲台)つくりが任務だった。 近代会津百年史(昭和四十一年刊)によると、弘化四年二月十五日に幕府から安房(あわ)上総(かずさ)の江戸湾 沿岸警備の命が出て、警備隊は会津を出発。陣容は番頭以下三百人ほど。ところが、嘉永元年(1848)五月に藩主容敬(かたたか)が巡回した時、 陣容は千三百九十七人、大砲・小銃四百七十四門、新造船十隻が備えられていた。 翌二年、会津藩は幕府に「江戸湾口、本牧、羽田、芝浦、品川辺に台場をつくり、諸候に命じてこれを守らしめ…」と 進言。その後は、品川などの台場づくりに励んだ。 文治五年(1189)会津最初の領主となつた芦名家は、初代の佐原十郎義連(よしつら=衣笠城主三浦大介義明の 子、のちに芦名を名乗る)からニ十代義広が磐梯山ろく磨上ケ原(すりあげはら)で伊達(だて)政宗に敗れて会津を去る まで四百年続く。領主は蒲生(がもう)、上杉、加藤と変わり、寛永二十年(1643)にニ代将軍秀忠の子、保科(ほし な)正之が会津二十三万石の領主に。のちに松平を名乗り、会津松平家は明治維新まで続いた。 |
三浦半島にある会津藩士の墓84基のうち、横須賀市には50基。内訳は、腰越墓地こ23基、西徳寺に11基、能満寺に10基 (以上、鴨居)円照寺(走水)に 6基である。写真は、能満寺の境内にある藩士の墓 |
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