岩礁に波がくだけ散る。耳元で潮風がうなる。ここは横須賀市西浦賀町六丁目、
浦賀港の久里浜寄り先端。背後は平根山や千代ケ崎。京急浦賀駅からバスで「紺屋町」下車、
二十分ほど歩くと、海辺に灯明堂跡の石積みがある。
幕府の命で灯明堂を造ったのは石川六左衛門重勝、能勢小十郎頼隆らで、慶安元年(1648)のこと。
今から三百三十六年前だ。沖を行きかう船の安全を守るため、明かりをー晩中ともし続けた、かつての灯台の跡である。
「新編相模国風土記稿」には「高さ五尺の石垣を築き上に楼方六尺を建て、灯を点じて夜中、回船の標とする」とあるが、
実際は高さー・八b、幅三・六b四方の石積み。
その上に木造二階建ての建物。一階には番人がおり、二階には直径約三十六a、深さ十二a、の灯蓋(とうがい)が置かれ、
四方は紙を張った障子、その上に金網をめぐらせてあった。一夜に灯心を百筋、菜種油をー升(1・八g)ともし、
その明かりは海上四海里(約七・四`)から見えた、という。
元禄三年(1690)まで幕府が管理、翌四年からは東浦賀の干鰯(ほしか)問屋が受け持ち、明治元年(1868)に
県へ移管、五年に廃止された。この間、約二百二十年間、夜の船の”命綱”として活躍した。
二階建ての建物は、明治二十年まであったが、風雨のために壊れた。大正十三年(1924)に国の仮指定史跡となつ
たが終戦後、解除。昭和四十三年に横須賀市指定史跡に。
灯明堂跡は人里離れた所。道路のぬかるみや大型ごみの不法投棄で話題となる。地元の川間町内会長、小山林松さん
は「暖かくなると潮干狩や史跡めぐりで人がみえます。いくら地元が美化に務めても、訪れる市民のマナーが決め手です。
まあ最近はよくなりましたが・・・。あそこは芝生を植えたりして史跡を軸とした小公園がいいと思います」と語る。
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