石井 昭 著 『ふるさと横須賀』
若山 牧水 @ 『「川端」に落ち着く』 |
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大正四年(一九一五)三月、牧水一家が落ち着いた最初の家は、横須賀市長沢八百八番地の斉藤松蔵さん宅。その家の近くを長沢川とも堂前川(どんめがわ)ともいう川があることから、屋号は「川 端(かわばた)」と呼ばれていた。当時の家屋は昭和八年ごろ、近くの津久井に移されたので、屋敷跡は訪ある人もいない。長年「北下補と牧水」を追う横須賀野比二百四十九番地の青木栄治さんに 、お話をうかがった。 「その『川端の家』へ行くには、現在の長沢旧県道沿いにある長沢七百三十六番地の高木さん宅前から、北へ十bの急坂を下ると堂前川。その近くに、橋とは名ばかりの古い舟底板一枚の橋がある。牧水が大正五年一月二日の夜、雨で増水した長沢川に落ちて、ぴしょぬれになった所。ここを抜けると、急に明るく広い畑の端に出ます。牧水が毎日のように、とっくりを提げて酒店に通ったという小道の正面の土手の下に『川端の家』があった」。 「当時の家は、間口六間(約十一b)奥行き四間(約七bで茅(かや)ぶきの家でした。座敷は十二畳、十畳に六畳。牧水は十畳の奥座敷を居間、六畳のー部屋を書斎として借り、炊事は縁側や庭先 でした、という」。 「そのころ家主の斉藤さん宅は六人家族。主人の松蔵さんは横浜で海運業を経営、そのため「川端の家」には、年寄りと子供たちの三人暮らし。屋敷跡の右手前に雑用水に使っていた井戸は、今も鉄のふたをして現存している。裏手にあった飲料、炊事用の井戸のほうは埋まってしまいました。家の庭や裏の土手の小道は、長男の旅人(たびと)さんの遊び場でした」。 青木さんは今、市の北下浦公民館副館にお務め。先ころ「牧水と北下浦」という著書を出版された。 |
歌人若山牧水は喜志子夫人、長男の旅人(たびと)さんとともに横須賀市長沢の斉藤松蔵さん宅へ。この家の屋号は 「川端」。写真は、その屋敷跡。建物などは消え、炊事用に使われた井戸だけが残っている |
若山 牧水 A 『長沢に7ヵ月滞在』 |
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「大正五年五月になると『川端の家』に、横浜から斉藤松蔵の妻キクがお産のために戻ってくる。牧水一家は引っ越しせざるを得なかったのです」と語るのは、長年「北下浦と牧水」を追う横須賀市野比にお住まいの青木栄治さん。お話は続く。 「それに松蔵が病気になったり…。当時のこととて、そう簡単に貸家は見つからない。結局、南下浦の古いせんべい屋のー部屋を借りる約束をした帰りがけに、友人の福永挽歌(ばんか)宅に立ち 寄ったのです。例の通り、とつくりをぶら下げて」。福永挽歌は、今の長沢二百九十六番地「久次郎の家」に間借りしていた。挽歌は明治十九年(一八八六)福井市に生まれ、牧水のーつ年下。ともに早稲田大学英文科に学んだ。牧水とはもちろん、佐藤緑葉、北原白秋とも親しく小説や翻訳で活躍した。翻訳といえば、デュマの「椿姫」が代表的。再び、青木さんのお話。 「つまみを探しに浜の菓子屋、山田半兵衛さんの家に行き『川端の家』から追い立てられている話をすると、おばあさんの山田チエさんが息子の角蔵さんと相談、すぐ近くの上の納屋(なんや)、長沢二百八十一番地の谷重次郎さんの家を教えたのです。谷さんの家は友人の挽歌宅とも近いし、南下浦のせんべい屋は断り、大正五年六月に谷さんの所へ引っ越しました。東京へ引き揚げるまでの約七カ月、滞在しました」 谷さんの家の前には、昭和の初めまでは蜜柑(ミカン)の木がたくさんあった、とか。牧水は『蜜柑畑の家』と呼んでいた。母屋のハ畳間で寝起きし、庭先のニ階建 ての物置を書斎がわりに借りた。今のご主人、谷重一さんに、ご登場願おう。重一さんは牧水の長男、旅人(たびと)さんと同じ大正二年の生まれ。 |
「川端の家」から今の横須賀市長沢281番地の谷重一さん宅へ若山牧水一家は移った。牧水は、この家を「蜜柑(ミカン)畑の家」と親しみを込めて呼んだ。写真は、谷さん宅の離れ。 2階が牧水の書斎だった |
若山 牧水 B 『物置2階を書斎に』 |
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牧水一家が、次に落ち着いた家は、今の横須賀市長沢二百八十一番地の谷重一さん宅。北下浦小学校に近い。ちょうど牧水が書斎がわりに借りた二階建ての物置の前で、農具の手入れをする重一さんにお話をうかがった。 「私は牧水さんのご長男、旅人(たびと)さんと同じ年です。よくケンカしたといわれるが覚えていないな。正直にいって私のおやじ、車次郎は、牧水一家のことは、そんなにしゃべらなかったし、 聞きもしなかった」 「家にいた時は相当、因っていたようだね。残された物はなにもないなあ。仮にあっても震災でつぶれたものね。この物置は震災後、改築したものの方角、位置、間取りは当時のまま。ほとんど変わっていません」 牧水の随筆に「物置のニ階」というのがあり、その中にこう書かれている。 「・・元来この土地は例の呼吸器病を恐れて他所から来る人を排斥する方針をとっているので、空いてる部屋があっても貸さないのである。一、二日かかりで漸(ようや)く借り出したのが、今の宿で半農半漁…」「奥座敷の暗いハ畳を家族の居間に宛(あ)てた。そして私自身は、その広庭の隅に建てられた物置小屋の二階に机を置いて、多く其処(そこ)に篭(こも)ることにして居るのである…」 牧水は、蓑(みの)を身につけ饅頭(まんじゅう)笠をかぶり、雨の海岸をノートをふところにー日中、散歩したこともあった、という。 牧水の足跡は大きい。随筆の中で「Fという店」「富士屋」「藤里」などと呼ぶ、当時の郡会議員、藤里堅誠の経営する酒屋、牧水が心から信頼し友情を交わした田辺久衛医師のー家、今の浦賀警察署近くにあった料理屋「田毎(たごと)」や「一月屋」をめぐるエピソードなど。 なお、「蜜柑畑の家」谷さんの家の歴史は古い。鎌倉長谷の高徳院大仏の台座に、先祖の名「重左衛門」と刻まれている。 |
若山牧水は酒をこよなく愛した。大正4、5年に住んだ 「川端の家」近くである。写真は、左側の家が、「藤里」、「Fという店」と呼んだ酒屋。横須賀市長沢736番地 長沢旧県道沿いである |
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