石井 昭 著   『ふるさと横須賀』

市立高等女学校 @  『”第一”消えた校名』
原文

横須賀市佐野町二丁目の市立陽光小学校が建つ丘は、かつて女学生たちに、双葉ケ丘と親しまれた。ここにあった市立実科高等女学校が、校名を市立高等女学校と変更したのは、昭和十二年の三月である。その経過について当時、組織の変更に当たった大谷茂副校長は、市立第一高校生徒会誌「せんだん」第十九号(昭和四十七年刊)で、こう述べておられる。 「当時の生徒を、そのまま高女に移らせるには文部省が直接、全教科の試験をする必要があった。昭和十二年一月に全員が受験、成績は良好で、平均点はハ十点を越えた。その結果、全員が高女へ移ることができた。その折、すでに市立第一高等女学校の校名で文部省に申請したが、中間で邪魔 が入ったのか、文部省で私が調べたら、第一の部分が赤線で消されてあった。文部省では『なぜ第一を消したのか原案のままでよいのではないか』という。文部省にいく前に、県の段階で第一の文字が消されたらしい。とにかく、そのころは、生徒は新しい学校づくりに頑張ったことは事実」  昭和十二年といえば、日中戦争が始まった年である。時代を反映、市立高女の教育の力点は温良篤実、従順貞淑なる女性に加えて知性良識、さらには、武道の修練による毅(き)然たる心操をうちに秘める人づくりとなった。 話が硬くなった。そこは乙女の花園。笑いと涙の学校生活は校友会誌「嫩葉(ふたば)」第一号〜第三号(昭和十四年〜十六年刊)に詳しい。 ちなみに、当時は校友会誌でさえも「出版法第三条ノ規定二準拠シ製本二部、相添へ及ピ届出候也」とし出版届を提出。第一号の場合、昭和十四年八月十二日に校友会理事、尾崎忠雄の名で、横須賀警察署長を経て、時の内務大臣木戸幸一や横須賀憲兵分隊長に提出。その写しが残っている。
原本記載写真
昭和12年7 月に日中戦争が始まった。だが、そこは乙女の花園、笑いと涙の学校生活は、校友会誌「嫩葉(ふたば)」第一号〜第三号(昭和十四年〜十六年刊)に詳しい。写真は、「嫩葉」第1〜3号の表紙

市立高等女学校 A  『「言語規定」決まる』
原文

「言語ハ明瞭(メイリョウ)、正確ニシ雅馴(ガジュン)ナルベシ」として、昭和十七年に「生徒言語規定」が決めらた。そのおもな内容は。 答ニハ「ハイ」「イイ工」トイヒ「ゴイマス」「マシタ」ヲ本体トス。 「エエ」「ウウン」「…デス」「…ワ」ハ不可。  自分ハ「ワタクシ」トイフベシ。「アタシ」「ワタシ」「アタイ」ハ不可。  呼ビカケニハ「先生」「様」「アナタ」ヲ本体トス。但(タダ)シ「サン」モ時ニハヨロシ。「チョット」「アンタ」ハ不可。  師長二関スル談話二モ敬意ヲコメ「イラッシャッタ」「オッシャッタ」「ナッタ」トイフベシ。「来タ」「言ツタ」ハ不可。  友人同志トイヘドモ野卑ナル言語ハ用スベカラズ。呼ビカケニハ「サン」ヲツケルベシ。 「オイ」「君」「オ前」ハ不可。答二ハ「ハイ」「イイ工」時二ハ「工工」モヨシ。「フン」「ウ ン」「アア」「ウウーン」「オーライ」ハ不可。  目下(弟妹・女中等)二対シテモ、ムヤミ二粗放二ワタルベカラズ。「アイツ」「オメェー」「オレ」「キャツ」「ワシ」「シテクンナ」「来ナ」「ヤレ」「シナ」「…ダ」「見ナ」「…ダイ」「…ダロ」「…カイ」ハ不可。  接尾語をムヤミ二附スベカラズ。「イイカサア」「ソイデネ」「行力ウヨウ」ハ不可。 其(ソノ)他流行語、ナマリ、略語ノ単語ヲ便用スベカラズ。「君」「僕」「◯◯チャン」「ダンチ」「モチ」「スゲー」「ケチナ」「シャクダ」「イケスカナイ」「デッカイ」「ヨセヨ」「ションガナイ」「…べ工」「…テラ」。 昭和十六年三月に学則が変わり定員千人に。翌十七年一月に県視学三好義次先生が学校長。市内田浦町の市立実践高等女学校が市立高等学校と改められたので、こちらが市立第一高等女学校、田浦町の高女は市立第二高等女学校となった。
原本記載写真
教室の黒板には「一、今朝の校長先生の話に就いて。一 、明日割烹(かつぽう)はありません」とある。写真は、朝のホームルーム風景。緊張したふんい気が感じ取られる(昭和13年、本科4年生)

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