石井 昭 著   『ふるさと横須賀』


海と空の博覧会 @  『復興期の東京に活』
原文

日本海海戦二十五周年記念「海と空の博覧会」は、昭和五年三月二十日から五月末まで、東京市の恩賜上野公園と横須賀市白浜海岸の記念艦三笠前広場や小川町埋め立て地の二会場で行われた。主催は財団法人三笠保存会と日本産業協会。博覧会総裁には伏見宮博恭(ひろやす)王、名誉顧問には元帥東郷平八郎、副総裁に男爵(しゃく)平山成信、海軍大将財部彪(たからべ・たけし)、陸軍大将井上幾太郎、会長には男爵阪谷芳郎が務めた。
第一会場の上野公園は本館と不忍(しのばず)の池の三つの展示館。夜景が壮観だったという。展示館の内容は、次の通り。
 ◆本館=台湾をはじめ樺太(からふと)、北海道、大阪などの地方特産物や、主要メーカーの丸善、日本製鋼所、三井物産、日本ビクター、古河電気などの製品。一方、軍関係では軍艦の模型、兵員 の服装、明治天皇の広島大本営での玉座や日露戦争の資料も。
 ◆対比館=中央陳列所に国産品と輸入品が比較できるように展示された。  ◆空の秘密館=太陽をはじめ月蝕、日触、太陽黒点実物映写、蜃気楼(しんきろう)、天空飛行の想像、珍鳥と保護鳥、空の新利用が話題を呼んだ、という。
 ◆海の秘密館=海産生物の垂直的分布模型図、真珠養殖、伝説「人魚と真正の人」、全魚養殖、力タパルト発射実演場、捕鯨業、鰹(かつお)漁業など。
ほかに、別館の航空館では中島飛行機製作所製造のプロペラやエンジンに見学者は目を見張った、とか。
 昭和五年といえば、関東大震災の七年後。「海と空の博覧会」は復興途上の東京市に活を入れた。ましてや当時人口約十万人の横須賀市においては…。記念艦三笠を中心として、市内はにぎわった、 と伝えられる。
原本記載写真
昭和5年の春、日本海海戦25周年記念の「海と空の博覧会」が東京・上野公園と横須賀市の記念艦「三笠」周辺で開かれた。関東大震災後の復興途上の大行事だった。写真は「海と空の博覧会」のポスターの1つ

海と空の博覧会 A  『県内特産品を展示』
原文

第二会場は、白浜海岸の記念艦三笠前の広場と市役所わき当時の小川町埋め立て地、今の横須賀新港の手前一帯。その二カ所を結ぶのが三笠橋。今の商工会議所わきの裏手に当たる。 会場運営には常任顧問として小佐野皆吉(先代)、大井鐵丸(市会議長、のちの市長)、小栗盛太郎。常任理事には高松長三、渡辺貫叔の両海軍大佐。 「日本海海戦二十五周年記念・海と空の博覧会記念帖」(昭和五年刊)には、会場の鳥轍(かん)図が載っている。埋め立て地の会場入り口には「海と空の博覧会第二会場」と書かれた歓迎塔が立つ。 近くには記念絵はがきなどの売店。正面の桜並木を通り抜けると日本庭園と築山。ちょうど会場の中心部である。その奥の海岸沿いに海軍館が。三笠艦寄りに産業館・特売館、諏訪尋常小学校側 には水族館、子供化学館、子供館、野外の音楽堂。子供の園があった。  三笠橋を渡つて海軍工機学校の塀沿いに行くと記念艦三笠。前の広場に三笠館が。近くの桟橋には、東京方面の観客のために東京湾汽船の客船が出入りした。  開会式は三笠艦前で行われ、東郷元帥の代理として加藤寛治(ひろはる)軍令部長や阪谷会長が臨席。この日、晴れ着姿の女の子が四人で祝賀メッセージをつけた伝書バトを放した。残念ながら「記念帖」には氏名がない。ご健在なら今、六十五歳前後か。第二会場の展示は、海軍関係資料と県内特産品が大半だった。特に、追浜に誕生した海軍航空隊や航空母艦の紹介、子供館での児童作品競技展などが、話題に。  会期中の四月一日には湘南電鉄、今の京浜急行の電車が開通。会場最寄りの中央駅や軍港駅(今の汐入駅)が誕生した。デパートさいか屋前の大通りが東郷通り、今の三笠銀座が三笠通りと命名された。
原本記載写真
「海と空の博覧会」の開会式は昭和5年3月20日、第2会場の記念艦三笠前でも行われた。この日、横須賀市内の小学生が晴れ着姿で伝書バトを放した。写真は、その小学生たち。ご健全なら今、65歳前後だろうか

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参考文献・資料/リンク
横須賀市市立図書館
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