石井 昭 著   『ふるさと横須賀』


市立実科高等学校  @ 『6学級260人で発足』
原文

市立女子技芸学校の廃校後、昭和二年五月に設立された市立実科高等女学校、六学級二百六十人で発足した。校長事務取扱いは船越文教で教職員十七人。翌年三月には、七十六人の第一回卒業生を送り出した。二代目の校長に県視学佐々木章治が就任、昭和十一年まで八年間にわたり、学校経営に腕を振るった。昭和三年九月に御大典記念として校章と校旗、翌年九月に校歌が、それぞれ制定 された。校章は、紫色の八咫(やた)の鏡のまん中に双葉とその実がーつ。「ふたばこそは伸びゆく青年の若き精神の象徴。紫の地は胸うちにひめた敬虔(けいけん)の情の貴きを示す。紅の実は輝いて人間精神の中枢に真心を持てとの教え」であるといわれた。 校歌の作詞は福田正夫で、作曲は山田耕筰である

『校歌』
 一、
みくにのしづめ
大軍港(おおみなと)
岸辺に匂(にお)ふ
せんだんの
双葉のみどり
かがやかに
空に伸び行く
希望(のぞみ)あり
わが 学舎(まなびや)に
栄(はえ)あれや
二、
をみなの鑑(かがみ)
むらさきの
花色ふかきつつしみに
毅(たけ)きをつつむ
よろこびの
土に崩(も)えゆく
平和あり
わが 学舎に
幸(さち)あれや

くれなゐ しるき
まごころの
求むる峯は高けれど
まことの教へ守るとき
道に 光の
啓示(さとし)あり
わが 学舎に
栄あれや
 昭和二十一年六月に歌詞のー部「みくにのしづめ大軍港」を「あらた世ひらく大港(おおみなと)」と改めた。校歌は昭和四十七年まで女学生に愛唱された。
原本記載写真
「くれなゐしるき まごころの 求むる峯は高けれど まこと教へ守るとき・・・」。写真は、最後の校歌の余韻に浸る卒業生たち。待望の新校舎から巣立っていった。校歌は昭和47年まで愛昌された(昭和12年3月)

市立実科高等学校 A  『近郊巡る校外教授』
原文

煙火打揚認可願
一、日時 昭和四年十月二日
自 午前七時
至 午後四時
一、場所 不入斗練兵場内
一、目的 本校運動会開会、食事、閉会等合図ノ為
一、吋(インチ)数 三吋半
一、数 十発
右之通打揚致度(たく)候間御認可相成度此段相願候也 九月廿五日
横須賀市立実科高等
女学校長 佐々木章治

東京湾要塞司令官 殿
横須賀警察署長

 運動会にあげる花火をこういう文書で願い出た。話を進めよう。昭和七年六月に、創立五周年記念式と物故者の慰霊祭が盛大に行われた。翌八年に四百人の定員が六百人となった。 「学校の概要」(昭和九年刊)では
◆保護者の職業 在籍五百三十四人のうち有職者は四百六十二人、無職者は七十二人。有職者の内訳は、商業百三十二人、工廠(しょう)従業員百六人、海軍軍人五十六人、軍属四十一人、会社員三 十二人、工業十三人、官公吏十三人、農業十一人、教員九人、医師六人、運送業四人、陸軍軍人一人、その他三十八人だった。 ◆  修学旅行 一年ー多摩御陵・高尾山(即日帰郷)、二年ー箱根方面(一泊)、三年ー東北方面(三泊)、四年ー関西方面(六泊)。 ◆  校外教授 衣笠城址、久里浜、浦賀港、三浦按針塚、西浦賀岸、城ケ島、臨海実験所、大楠山、逗子葉山海岸、神武寺、鎌倉、夏島、金沢八景、新井城址、武山、軍艦、海軍工廠、航空隊、軍需部、市立病院、馬淵聾唖(ろうあ)学校、郵便局、幼稚園、製氷所、東京電灯などの見学。 ◆ 課外教授 家庭看護法実習、按摩(あんま)術実習、茶道、花道。 ◆ 校友会活動 会費月額五十銭。組織ー学芸部、陸上競技部、籠球部、卓球部、排球部、弓道都、水泳部、園芸部、庶務部、購買部。
原本記載写真
旧制中学は、柔道か剣道が必修の時代だった。その一方、女学生たちはなぎなたで「礼に始まって礼に終わる」緊張し続けた1 時間だった。それなりに気骨が育ったとも。写真は、そのなぎなた実技の時間である

市立実科高等学校 B  『「弁当保温器」の話』
原文

「校報第一号」(昭和十二年刊)に「弁当保温器について」の文章がある。戦前の学校生活のー端がうかがえる。紹介してみよう。 「生徒に寒中冷え切った食事をさせるのは保健衛生上よろしくないので、弁当保温器を家庭会(父母会)で作って貰(もら)ふことになり、先(ま)づ方々の学校へ視察に行つた。大抵は木炭、又はタドンを使うので経費も相当かかり且(か)つ取扱ひの不備から危険も伴ふので考慮している中(う ち)、計らずも秦野高女で電気使用の物があるといふので早速、家庭会側と同行、視察に行き説明を聞いて、本校にても着手することになった。 先づ電気と木工の専門技師を呼び熟議を凝(こ)らし、本器の製造を見るに至つた。器は高さー・六b、間口一・四b、奥行0・五bの三層張りの箱で、木材は南洋産のラワンを使ひ、中は金網式で十段、弁当をニ百人分入りとなし、最下部に五百hのスペースヒーター三個入れ電熱を供給する。 設備万端整って明日、保温の試験となると、生徒の喜びはー通りでなかった。しかし最初は下部と両側が温まって真中が温まらぬとか、同じ場所でも甲が温って乙は温まらぬとか、悲喜交々(こもごも)至るという工合で失敗に終った。そこで弁当包みをー定し、熱の対流作用を考へ、寒暖計にて調節、完全な結果を見出すことが出来た。毎日の食事に生徒の顔を見ては、誠に愉快に堪(た)へない。更に経費の点は箱代が百円であるが、名古屋製の木炭入りの保温器が五十人分入れでー個十七、八円からニ十七、八円なのに比べると、高いとは言はれず、電熱料も三ケ月六、 七十円であがりさうであるから、木炭より経済的である。 因(ちな)みにこの保温器は、夏季に 於いて何か利用の途(みち)はないか、と目下、考究中である」
原本記載写真
昭和11年に今の市立陽光小学校が建つ、佐野町の高台に校舎が完成した。講堂では「全集」と呼ばれた全校集会が開かれた。昔なつかしい弁当保温器が登場したのも、このころである。写真は、周1 回の「全集」

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参考文献・資料/リンク
横須賀市市立図書館
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