大正八年(一九一九>)月に、横須賀市視学小山忠義の尽力によつて、実業学校令による市立女子技芸学校の設立が認可された。校舎は豊島尋常小学校の裁縫教室を借り、ミシンはわずかー台で発足。
半年の間、汐入町の勧業商会のニ階に分教場も設けた。最初は、小学校の卒業生や海軍下士官兵の夫人を対象に裁縫や手芸を教えたが、次第に修身、国語、算術、体操、家事などの科目がふえた。修業年限は本科が三年、専修科がニ年、補習科(後に別科)一年だった。
翌九年に第一回卒業式。本科八人と専修科十一人が巣立った。大正十一年三月に、校舎が豊島尋常小学校から田戸尋常小学校へ移り、三年後には、今の緑が丘学院が建つ高等八幡山小学校へ。その間、校長は初代の岩田善明のほかは、福本有次郎、鈴木信義、綾部信ら小学校長が兼務。十四年に、渋谷祝造が専任の校長となった。
女子技芸学校は、昭和二年三月に廃校。設立以来、七年間の卒業生は本科二百六十人、専修科五十一人、別科七十七人の合計三百八十八人である。廃校と同時に、市立実科高等女学校の設立が認可された。「二つ目の女学校を」という市民の要望に応じたもの。旧女子技芸学校と横須賀高等女学校実科の生徒が編入試験を受けた。
昭和二年五月三日に開校式。校舎は再び田戸尋常小学校、正面二階の七教室を借りた。五年四月に横須賀高女が、平坂上の深田校舎から大津町へ移ったため、その跡に収まつた。今の県立青少年会館の所である。
昭和十一年二月に、待望の新校舎が完成した。鶴久保尋常小学校の跡、今の陽光小学校が建つ高台に。その後、校名は四回も変わる。昭和十二年に市立高等女学校、十七年に市立第一高等女学校、二十三年に市立第一高等学校、そして四十七年に船越町にあつた市立第二高等学校と統合して、森崎団地に建つ市立横須賀高等学校となつた。
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