石井 昭 著 『ふるさと横須賀』
三横競馬 @ 『練兵場で春秋2回』 |
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大正十四年(一九二五)三月に第一回競馬会が大津海軍練兵場、今の市営大津公園グラウンドで開かれた。競馬は三浦半島で初めて。翌十五年六月に、三横(さんおう)競馬県楽部(くらぶ)が設立された。三横とは三浦郡、横須賀市の略。七月十日から三日間、第二回競馬会が催された。 会場は、今の京急北久里浜駅前一帯に当たる根岸陸軍練兵場に移つた。以後、毎年春秋のニ回、昭和五年まで続いた、という。 軍の練兵場で、なぜ競馬が、という疑問に答えねばなるまい。今の大津公園は 明治十二年にできた海軍射的場だった。根岸陸軍練兵場は日露戦争後、耕作地約八万坪(約三十四f)を、明治四十二年から大正二年にかけて埋め立てて完成した。だが、馬力で大砲を引いたのは昔のこと。日露戦争体験後は、繋引(けいいん)車が登場。馬堀の重砲兵学校や不入斗(いりやまず)の重砲兵連隊からは道路の関係で無理、しだいに富士山麓(ろく)を使うようになつた。このために、根岸は海軍の陸戦の演習以外は、かなり市民が自由に使えた。 根岸競馬場とはいえ、今のような馬場が整備されていたのではなく、にわか作りのだ円形のさくがあるだけの草競馬だった。 それでも事務所や馬券の売り場があり、階段状の観覧席も。当日は日ごろ人っ気のない根岸も、露店や物売りの呼び声、近郷近在からの人の波、どよめく歓声と嘆声が交錯した、という。 競馬のスタートは、旗振りが斜め前に立ち赤旗を振り下ろすと、各馬の乗りっこ(騎手)によって走り出した。出遅れはあるし、今と違いゲートがないので、なかなかそろわない。馬主が馬の口を大きくあげさせ、生卵やビールを飲ませた、とか。 次回は競馬場で馬券売りのアルバイトを経験した、市内根岸町一丁目の竹永俊武さんに、ご登場願おう。 |
大津や根岸の練兵場で大正14年(1925)から昭和5年までの間、三横競馬が開かれた。近郷近在からの人の波、どよめく歓声と嘆声が交錯したという。写真は、終戦直後の練兵場=横須賀市根岸町1ノ11 竹永俊武さん提供 |
三横競馬 A 『切符売り1日3円 』 |
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「競馬が始まった大正十四年といえば私は十八歳。海軍工廠(しょう)の見習工で日給八十銭でしたが、競馬場の切符売りのアルバイトはー日三円。妻子ある職工の日給がー円七、八十銭でしたか」 と語るのは、横須賀市根岸町一丁目にお住まいの竹永俊武さん。明治四十一年生まれ。昭和三十四年から十七年間、町内会長を務められた。お話は続く。 「工廠を三日続けての欠勤は無理だから、二日にして競馬場…なんて若者同士で考えたものです。馬券はー枚一円、たまには、面白半分に買つてみました。 当時、県内では小田原、平塚、藤沢、鶴見など九カ所で始まり、春秋三日ずつの開催でした。初日とニ日目は各六頭が走り、二日間の上位三頭が、最終日の決勝に出場した訳です。 馬は甲馬、乙馬、丙馬、丁馬、郡内馬の五種類。甲馬はサラブレッドで、中央に登録。郡内馬は身近な三浦郡内の馬ですよ。競馬場には厩(きゅう)舎があったが、甲馬クラスは根岸の農家が預かりました」 大正四年ごろ、根岸には農家がニ十三戸。練兵場完成時は耕作地がゼロ。そこで、牛小屋や納屋に競馬用の馬を預かり、期間中は母屋(おもや)に騎手を泊めさせていた、という。竹永さんのお話は続く。 「私の所は、小田原の高瀬次郎という網元の持ち馬で、名前はブルーダイヤモンドといいました。 根岸の里の人たちは最初、競馬を軽蔑(べつ)したが、馬を預かると、次第に馬のかわいい目にほれ込んで愛情がわいてきた。競馬を見直し始めましたよ。手伝えばー日三円でしょ。日参して病みつきになっちゃって。金回りのいい騎手たちは毎晩、酒宴と花札とばく。長い間には弊害が出るもので、昭和五年で打ち切られたことはお互い、よかったと思いますね」 根岸の練兵場は、子供たちの絶好の遊び場でもあった。根岸の広っぱ、根岸の原っぱ、という言葉は、もう死語となった。 |
三浦市の引橋の近くに三横競馬場にあった石塔が保存されている。毎年5月には、ゆかりのある人たちによって供養が行われる。写真は、その石塔。戦後この付近で開かれた三横競馬の関係者が、昭和27年5月に根岸から移したそうだ |
三横競馬 B 『ごほう抜きで優勝』 |
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京急三崎口駅に近いバス停「宮田」下車。海へ向かって歩くと右手は入江。山沿いを進むと三浦市初声町下宮田の一角。日だまりの庭に藁(わら)を干す家が原田由蔵さんのお宅。 中央競馬で活躍したサラブレッドを引き受けて世話する由蔵さんは、明治四十三年生まれ。かくしゃくとして馬とともに生きる人。お話をうかがった。 「おやじの留蔵が馬好きで、畳屋をやめちゃつたほどだべよう。昔、おやじと福島の馬市へ行ったがよ、千頭はいたな。六頭でねえと貨車いっぱいにならねえから、六頭買って来たようだ。 根岸の三横競馬じゃ忘れられねえなあ。うちのテンジンがー着。ホレ、あれを見なっせい」 由蔵さんの指さす玄関の壁には、次のような賞状が掲げられてある。 「馬名 テンジン 馬主 原田留蔵 騎手 竹内亀吉 賞金八拾円 右ハ昭和五年春季競馬会第一日第二 競馬二於テ一着ヲ得タリ 仍て頭書 ノ通り授与ス 昭和五年六月十四日 三横畜産組合長代理 副組合長 小山定吉」 お話によると、三横競馬に知人がテンジンを出馬させたが、郡内馬十二頭で見事どんじり。父親の留蔵さんが譲り受けて「われ仕込んでみろ」。由蔵さんは今の三浦海岸へー年間、テンジンをしょつぴいて行き、特訓を重ねた。再びお話を。 「昭和五年六月十四日、この日は三横競馬の最後の年だよう。テンジンは出走直後はどんじり。一周後はおめえ、ごぼう抜きで優勝したべえじえよう。テンジンはどんじりの翌年だべ、だれも予想しなかった。海岸でやってたろ、話題にもならなかったつうわけ。あの気持ちは忘れられねえなあ。テンジンの馬券は十八めいしか売れてなかったよう。ていへんな大穴だったもんなあ・・」 |
三浦市初声町にお住まいの原田由蔵さんが特訓した愛馬が、三横競馬で優勝した。馬主の父、留蔵さんは金80円を手にした。売れた馬券は18枚で大穴だつた、といわれる。写真は、その時の賞状で、愛馬の晴れ姿も額の中に |
三横競馬 C 『意気込みで馬に通ず』 |
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戦前、どんなに馬が貴重なものだったか。三浦市初声町にお住まいで、今なお、サラブレッドの面倒を見る原田由蔵さんは、こう語る。 「ろくに自動車がなかったべえ。昭和十六年にー頭四千六百円。当時は田畑が一反(約千平方b)千円で買えたよう。勤め人の月給が四、五十円だ・・・」 戦時中は、軍馬として徴発に応じたそ うだ。「軍馬タルノ資格アル馬四頭ヲ飼育管理シ、支郡事変二当り馬徴発二寄与セルコト大ナリ」と書かれた部隊長名の表彰状が残っている。「呼び付けられたので、怒られると思ったら表彰状だ・・・。人間はー銭五厘のハガキで引っぱられたが、馬もねえ」と、しんみりと振り返る由蔵さんである。昨年一月のある夜、馬が逃げた、という。「片方の馬が泣いたから起きてみてわかった。というのはなあ」と前置きして 「小屋のおどし(錠)をかけ忘れちまって。舗装道路じゃ足跡もねえし警察へ知らせた。引橋を回ってめっけてくるよといって、京急三崎口駅まで来たら、あっちだとせえつて(教えて)くれた人が。 海岸の鼻っとにいたじえよう。三人の警官が来てくれたが、見たこともねえ顔だから馬はぶり戻った。おれが、でかい声で呼ばったら、こっちへ吹っ飛んで来て、ピタりと止まった。息ついたよう。馬は牛と違って畑を荒らさねえ。爪が割れてねえから作物を傷めねえ。馬ぐらい利口者はいねえよ。丘の上にふつ飛んでな駆け巡ったらしい。湯気をあげていた。夜は着物きて寝かすべえ。 ああ、えさかい。近くのお豆腐屋のおからだ。おからは豚や牛には不向きだが馬にはいい。毛並みも良くなるし」 由蔵さんはー度も馬券を買ったことがないし、競馬で蔵が建った者はいない、という。「生き物は面倒しだい、おれが七十四に見えるかい。人間、意気込みだべ。そりゃ必ず馬にも通ずるんだ」とは、熱っぽい結びの言葉だった。 |
「馬券も買ったことはないし、競馬で蔵が建った者はいない」とは、原田由蔵さん=三浦市初声町=のお話。写真は、中央競馬で活躍したサラブレッドを譲り受けて育てる由蔵さんと、愛馬「フウウン」。手入れと乗馬が日課だ、とおっしゃる |
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