石井 昭 著 『ふるさと横須賀』
横須賀海兵団 @ 『6カ月の新兵教育』 |
---|
逸見村字(あざ)森崎。今の横須賀駅裏から、海兵団が楠ケ浦へ移ったのは、大正六年(一九一七)。ここから終戦までの間、幾多の海のつわものどもが巣立った。悲喜こもごもの思い出を持つ人たち が今、三浦半島各地に多くおられる。入団後、六カ月間の新兵教育中の階級は四等水兵。冬の黒い水兵服に階級章はなし。そこでカラスと呼ばれた、という。 退団後は、三等水兵に進級して軍艦などへ配属された。 この新兵教育の様子を、昭和五年六月に入団した千五百人のアルバム「四等水兵修業記念」(横須賀海兵団刊)でひもといてみる。まず巻頭に、明治天皇の御製と海兵団歌が。 「海辺の巌(いわお)」 磯(いそ)ざきに たゆまず寄する 荒波を しのぐ巌の力をぞ思ふ 「横須賀海兵団歌」 れいほう富士を仰ぎ見て 浅間の神 鎮まれる 楠ケ浦辺にげんぜんと 立てる我等の海兵団 なお、のちに団歌Aが制定された。次は、その第一節。 春衣笠に 咲き匂う 花を 心に 丈夫(ますらお)が 千古ふようの雪仰ぐ ここ横須賀の白浜に これぞ 我等の海兵団 新兵教育の六カ月をアルバムの説明文でつづってみよう。 ◆ 入団 万歳の声の中、希望の輝き離愁(しゅう)の曇り、喜悲交錯の心を乗せ、汽車よ横須賀へ走る。 ◆「入団式 第一歩。合格の声に蘇生(そせい)の喜び、教班長の親切さよ、水兵服の身軽さよ。「服の香に匂ふ心や大和魂(だま)」 ◆「就寝・起床 終日の疲労は釣り床の夢と消える。『総員起こし』の号令に、活動の火蓋(ぶた)は開かれる。 ◆ 食事 待ち遠しきは食事の時間だ。快きかなラッパの響き。 ◆ 修身 「如何にせば寡(か)を以つて衆を制するか?」熱弁は幾度か、感奮の汗を握らしむ。 |
「待ち遠しきは食事の時間だ。快きかなラッパの響き」。麦めしにみそ汁、野菜の煮付けなど副食はー品。慣れるまで月日がかかったという。同じ釜のめしを食うのも訓練のーつだった。写真は、「四等水兵修業記念」(昭和5年刊)から |
横須賀海兵団 A 『苦楽奮闘の千五百人』 |
---|
昭和五年六月入団の千五百人の新兵教育は続く。 ◆砲後の人 百中のー門はー中の百門に匹敵すると思へば、心は緊(しま)り気は勇む。 ◆衣笠登山 総勢千五百名は十月二十四日、延々長蛇、衣笠山を登山し、一日の行楽を楽しんだ。 ◆久里浜行軍 記念碑の前に佇(たたず)めば当時の状景、彷彿(ほうふつ)と現わる。 ◆結索 索具の使用は今も昔も変わらない。結索は海兵の常識であり、熟練は迅速確実の母である。 ◆艦務実習(甲板掃除)死なば諸共(もろとも)、磨けば輝く船も人も。 ◆金沢行軍 金沢文庫を以って名ある此(こ)の地は琵琶(びわ)湖にまさるハ景として讃(たた)えらる。長江玉浦、青松白砂の続く所、さながらー幅の絵である。 ◆遊泳練習 水か人かと紛(まが)ふ裡(うち)にも秩序がある。水泳も教練であり、海浜必須(ひつす)の武技。 ◆ 神武寺 毎期、新兵行楽の地である。伊豆の山々は雲煙模湖(もこ)と霞(かす)み、足下に逗子の避暑地が赤青を点綴(てんせつ)して見える。 ◆辻堂演習 炎天下の努力は遂に稔(みの)った。秋十月、我等の陸戦隊は、威風堂々と鎌倉町を圧して辻堂へ。 ◆衣笠行軍 名勝衣笠の山頂に立てば、義烈の土・三浦大介の遺勲偲(しの)ばる。 ◆角力(すもう) 勝たねほ負ける! 精一杯力の争ひ! 角力の魅力は全力の美にある。 ◆銃剣術競技 皮を切らして骨を突け。これが日本軍人の美であり、銃剣術の極意である。 ◆団員慰安会 華やかな慰安会は十一月二日に催された。余興に演芸に五千の団員は終日、打ち寛(くだ)けた団楽に酔ふた。 ◆短艇査閲 苦楽奮闘の思い出尽きせぬカッター総決算の日、全新兵の血を湧(わ)かす晴れの日。各員競ふて漕(こ)いだ。腕よちぎれよ、櫂(かい)よ摧(くだ)けよ、とばかりに漕いだ。 |
力強い軍楽隊を先頭に三浦半島各地へ行軍をした。行く先々では精神訓話も。特に三浦一族の城址に近い衣笠公園は、代表的なコース。写真は、横須賀市上町の大通りを行軍するー団と、公園頂上で訓話を聞く水兵たち |
横須賀海兵団 B 『歓喜の中に涙あり』 |
---|
四等水兵は新兵教育の仕上げに頑張った。 「銃隊査閲 十一月十二日に団長の査閲行はる。つどう新兵、斉々たる軍容、堂々たる行軍。帝国海軍の前途また頼もしきかな。 退団の日 歓喜の中に涙あり、明日は雲井に別るとも、など忘れ得ん揺藍(ようらん)地。 話は変わるがNHKに今、貴重なフイルムが保存されている。目録によると「日本二ユース第32号」で昭和十六年一月十四日の日付。タイトルは「海の誇り胸に海兵団入団(横須賀)」とある。 ニュースの内容は「海軍の兵は十五歳で志願した特年兵や満十六歳以上で志顔したー般志願兵、それに満二十歳の徴兵検査に合格した兵も団門をくぐった」として、画面は次の通り。 「点呼を受ける入団者、肺活量の測定や、つり輪にぶらさがる身体検査、下士官の指導で水兵服に着替える新兵、家族に私物を渡して別れる新兵…」など。 毎年五月二十七日の海軍記念日は、市民に構内が開放され、運動会などで終日にぎわい児童、生徒らも参加した。たとえば、旧市立第一高校の「創立二十五年史」(昭和二十七年刊)に「海兵団での運動会は全校生徒出席。三、四年生ダンス、一、二年生、陸上競技に出場(昭和七年)」とある。 目玉は観兵式。三十個分隊、約五千人の威風堂々たるものだった。観兵式といえば、昭和十九年一月十五日が最後か。鎮守府司令長官豊田副武(そえむ)が観閲官。「日本二ュース第百九十号」に収録されている。 なお昭和十六年十一月に横須賀第二海兵団が誕生、十九年一月に武山海兵団となった。今の少年工科学校など、陸上自衛隊を主とした施設となつている所。 横須賀地方復員局による「終戦時に於ける横須賀鎮守府関係参考資料」(昭和二十二年刊)では、終戦時の横須賀海兵団には、一万一千九百四十五人、武山海兵団には、二万一千八百八十九人が在籍していた。 |
団長の査閲もすすみ、見違えるほど鍛えられた1,500人 に対する新兵教育は終わった。「歓喜の中に涙あり、明日は雲井に別るとも、など忘れ得ん揺籃地」。写真は、全員が三等水兵に進級し、上官の見送る中を巣立って行く |
寄稿・補稿欄 |
---|
参考文献・資料/リンク |
---|
皆様からの声 |
---|
ご意見・ご感想をお寄せ下さい |
---|