製鉄所建設に従事した寄場(よせば)=囚人のー時収容所=”人足”は慶応元年(1865)、石川島寄場から船で護送されて来た。
京急汐人駅近くにある旧EM(兵員)クラブ付近は、アシが生えた湿地だったが、ここが埋め立てられて明治二年(1869)に寄場が出来た。
地元では、これを「汐留の寄場」とか、「汐留の牢(ろう)屋敷」と呼んで恐れられていた。
「子供のころ、祖父がいうには、若いころよそへ行って『汐留から来た』といったら相手があとずさりした、そうです」
とは、汐入の古老の話である。
”人足” の服装は、背に黒餅(こくもち)を描く白地木綿の法被という白装束であった。
村々には、その服装の図をそえて「見かけたら脱獄者ゆえ寄場に申し出よ」と通達した。
製鉄所の志村左一郎らが、明治元年六月に起草した『分署囚徒取扱規則案大要』は興味深い。
たとえば「囚徒室」という語が出てくるが、それ以前の名称や、のちの軍監獄の営倉に比べて、異なった発想ではないだろうか。
”人足”には、毎日の入浴や、五郎八茶わんの使用が許されていた。
五郎八茶わんとは、ごろごろと世渡りするゴロツキが使う、一ぜんめし用の大型茶わんのことで、
今のどんぶりだ。凶器になりかねない茶わんを使わせていたのである。
寄場は、出所しても引き取り人のいない者や、生活困窮者までも収容していた。
さらに、横浜監獄の廃止により”人足”が汐留へ移管されたので、寄場は大入り満員になった。
だが、明治六年十一月に廃止となり、施設は平坂上へ移転した。
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