画期的な製鉄所建設を成し遂げた小栗上野介の陰の人は、栗本瀬兵衛(鋤雲=じょうん)である。
小栗との出会いは、小栗家物見所の安積良斎の塾であった。
時に栗本十七歳、小栗は十三歳。
彼は、幕府の医者喜多村家の出身で、嘉永元年(1848)に同じ医者、栗本家の養子になった。
彼の生涯で、一大転機となったのは三十七歳の時。オランダが幕府に献上した『観光号』に試乗した時のことである。
のちに、幕府の命で移住藩士頭取として北海道へ渡つて、活躍した。
そのころ、フランス語通訳で、函館に滞在中の力ションに日本語を教え、逆に彼はフランス語を習った。
この時のニ人の友情が、のちのロッシュ公使と小栗上野介の意気投合につながるのである。
時勢が激しくなるにつれ、彼は江戸に呼び戻され、昌平學の頭取を経て、元治元年(1864)には目付となり、外国係に命じられた。
そして、幕府の軍艦「翔鶴(しょうかく)」の修理をフランスに依頼したのがきっかけで、小栗との仲が深まった、といわれる。
やがて、製鉄所建設が具体化されると、小栗は幕府の上司への説得や予算を受け持ち、栗本はもつぼら語学力を生かして、
フランス側との交渉を担当した。
彼は、のちにパリに派遣され、日仏親善に尽くしたが、帰国後は、筆に余生を託して、報知新聞に健筆を振るった。
明治三十年(1897)、七十六歳で没した。墓は東京・文京区の善心寺にある。
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