レオン・ウェルニーは天保五年(1834)、フランス東部のオーベナで生まれた。
オーベナ中学、リヨン高校、そして高等科学学校を経て、二十三歳で造船大学を卒業。
その後、海軍造船官として、ブレスト工廠(しょう)で船舶の修理などを担当した。
フランスが自国の東洋貿易を守るため、中国の上海で砲艦四隻を造ることになった時、ウェル二ーは、
その責任者に抜てきされ、二年間その任務に就いた。
その後、帰国して静養をと願つていた彼に、当時の駐日公使ロッシュから
「日本に造船所を建設することになったので、ぜひ」という依頼が届いた。
もちろん、フランス政府の許可は得た。
そこで、彼はー時、フランスに帰国して、資材や作業に従事する人たちの準備を整え、慶応二年(1866)六月に来日、
横須賀に着任した。
以来、帰国するまでの十年半、激動の日本にあって造船事業に励んだのである。
彼は、そのほかに観音崎、城ケ島、野島崎、品川の各灯台や走永の氷道などの建設にも尽くした。
また、日本技術者の卵を積極的にフランスに留学させたことは、見逃せない業績であろう。
明治九年(1876)、ようやく日本人の手で造船事業ができるようになった時、彼は帰国した。
帰国後は、不遇の生活を送つたといわれ、四十一年に没した。
七十四歳。マリー夫人との間に五人の子供があったが、そのうちの三人は横須賀で生まれている。
ウェル二ーの胸像は今、臨海公園に小栗上野介忠順と並んでいる。
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