小栗上野介忠順(ただまさ)が、幕府の使節団のー員としてアメリカへ渡ったのは、万延元年(1860)一月である。
サンフランシスコに上陸した彼が、まず感激の声を上げたのは、新聞の存在であった。
わが国の当時の「かわら版」と違って、その日のうちに、次々と使節団の動きや写真が紙面に掲載されるのを目のあたりに
見て、その報道の正確さと迅速さに、彼は驚いた。
帰国後、幕府内で新聞事業の必要性を説いたが拒否された。
のちに幕府が崩壊した時は、彼は「もし新聞紙あって、公武の秘密、官民の内情暴露せられたりしならば、事ここに及ばなかったであろう」
と嘆息して語った、という。
その間の消息は「日本新聞発達史」に記されているし、福音寺湖五郎の小説「小栗上野介」では、小栗の情熱あふれる
言動を知ることができよう。
その時、彼はすでに豊後守に叙せられていた。だが、他に同じ豊後守がいたため、自ら避けて上野介を称し続けた。
”守のほうが介より上位である”といった権威には、無関心であったようだ。
明治元年(1868)、彼は、旧官軍の手によつて旧領地の上州(群馬県)権田村付近で殺害された。
時に、四十一歳だった。
毎年十一月十五日、臨海公園で行われる製鉄所開設式典には、彼の郷里、群馬県倉淵村の代表が参加する。
横須賀市と倉淵村とは”姉妹都市” の仲。
市は今、この村に、市民休暇村の建設を計画している。
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