石井 昭 著  『ふるさと横須賀』

横須賀製鉄所 @ 『横須賀湾に決まる』


「こ時勢だ。大型船を造ってもよいぞ」という大船製造解禁の令が、幕府から出されたのは嘉永六年(1853)。 ペリーの黒船来航の年である。 そして翌年、幕府の命で浦賀奉行与力の中島三郎助が、洋船をまねて「鳳凰(ほうおう)丸」を造った。 長さ四十b、幅九bの船。 この船が、品川の港に着いた時 ”異国船”と間違えて幕府がー時、大騒ぎした、とか。 その後、幕府はオランダの協力を得て、長崎に海軍伝習所と製鉄所というわが国初の造船所を建設。 だが、造船所は江戸に近い所に、という声が高まっていった。 そのころ、フランスのレオン・ロッシュが公使、メルメ・ド・カションが書記官として、 わが国に滞在していた。
ところで、力ションと顔なじみの栗本瀬兵衛(鋤雲=じょうん)が幕府の目付となって、 口ツシュ公使と接触。やがて公使から「フランスに委託させるならば、立派な造船所を建設するが…」 という申し出を受けた。 そこへ登場したのが、勘定奉行の小栗 上野介忠順(ただまさ)である。彼は、幕府の命により、栗本とともに公使に会い、 造船所建設の交渉を始めた。 元治元年(1864)十一月十日、幕府は建設一切をフランスに委託することに決定。 共同で長浦湾と横須賀湾を調べた結果、フランスのツーロン港によく似ているという理由で、 横須賀湾に白羽の矢を立てた。

フランスのツーロン港こよく似ているというので、横須賀に製鉄所、のちの造船所が造られた。 写真は、かつての横須賀港。右手は修理中の三国丸、左の3本マストはオランダから贈られた観光丸だった、 という=横須賀市資料室提供

横須賀製鉄所 A 『工事は囚人を動員』


元治二年(1865)一月二十九日、幕府は、老中水野和泉守、若年寄酒井飛騨守の連署で フランス政府に対して、約定書と製鉄所起立原案を送った。 当初、横須賀製鉄所と称してはいたが、実際は造船所の建設が目的。 規模は、ツーロン港の三分のニで、製鉄所をーカ所、ドックを大小二つ、三つの造船場などを 四年間で完成させるというもの。フランス人技術者を四十人ほど雇い入れ、しめて予算は年額六十万ドル、 総額二百四十万ドルだった。 同じ年(改元され慶応元年)九月二十七日、横須賀村の三賀保、白仙、内浦に及ぶ約二十四万四千六百平方bの建設工事の鍬(くわ)入式が行われた。 この日が、「横須賀開港の日」とされている。工事には、寄場(よせば)人足と呼ばれた囚人二百人が動員された。 このころ、衛所が横須賀村の水ケ浦(今の汐入町二丁目)、八坂(汐入町四丁目)、深田村田成(平坂上付近>に、 見張所が桜山(臨海公園近くの山)、大滝、中里村、丸山(上町>に、それぞれ設けられた。 これらは、フランス人の保護が目的だった。フランス人には、ピストルの所持が認められていた。 ウェルニーま、まず三十馬力の小蒸気船(全長二十六b)を造った。 エンジンはフランス製で「横須賀丸」と命名。この船が製鉄所での第一号である。 同時に進水した十馬力の小型船とともに、横浜造船所との間に就航。工作機械などを運搬した。 そして、部下ボエルに当時の横須賀の姿を撮影させた。

江戸幕府が建設した横須賀製鉄所での第ー号の船は、蒸気船「横須賀丸」だった。 この船は30馬力で全長26b、エンジンはフランス製という。 写真は、横須賀案内の絵図である。 (明治12年)=横須賀市資料室提供

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