石井 昭 著   『ふるさと横須賀』


横須賀海軍病院  @  『中将昇進の名院長』
原文

明治三年(一八七〇)、横浜の海陸軍屯営跡にできた横浜仮病院は、二年後に廃止、八年に浦賀に仮病院が設けられた。 その後、今の市文化会館の所に横須賀海軍病院の建設が始まり、十二年に完成。開院は翌年二月で、所管は海軍省医務局に。 初代の病院長は海軍中医監(中佐相当)宮下慎堂。海軍軍医三羽ガラスのー人だった。当時の官員録によると、海軍軍医の将官クラスは、軍医総監の戸塚文海、次いで佐官クラスは、宮下と吉田顕三の二人だけ。十七年、病院は横須賀鎮守府の所管となった。その年、海軍医部条例によつて海軍病院の役割は、「海軍軍人ノ健康ヲ保全シソノ患者ヲ治療シ、及ビ兵籍二入ル者ヲ検査シ、服役二堪へザル者ヲ診断スルナド海軍一般ノ医務ヲ管理スル所」と定められた。 病院は大正十二年(一九二三)九月の関東大震災で全焼したのをきっかけに、楠ケ浦の海軍構内に移り、新築された。歴代病院長のうちで、名院長のー人と慕われたのは田中朝三。昭和九年から二 年間務めたあと、十二年に、軍医最高の中将に昇進。田中は明治十八年生まれで埼玉県入間郡大塚村(今の坂戸市多和目)の出身。千葉医学専門学校から、海軍軍医学校へ進んだ。大正十二年からニ年間のアメリカ留学後、東京帝国大学から医学博士の学位を受けた。出身校でない大学から得ることは当時、至難のことだつた、といわれる。 軍医の要職−連合艦隊の軍医長や軍医学校長を歴任して、昭和十五年に退役後、招かれて中国へ渡った。同仁会華中防疫所長や、青島(チンタオ)医学専門学校長を務め、戦後は、郷里で医院を開く傍ら晴耕雨読に親しんだ。昭和三十年十二月に逝去、七十歳。墓は、自宅前の桑畑にある。
原本記載写真
明治12年(1879)以来、今の市文化会館の所にあった横須賀海軍病院は、関東大震災後に楠ケ浦へ移った。戦後は、米海軍基地内に「横須賀海軍病院」 の表札をはじめ、本館なども健在。円内は、名病院長と慕われた田中朝三海軍軍医中将

横須賀海軍病院 A  『今に受け継ぐ伝統 』
原文

「私は三度ほど海軍病院勤務をしましたが、田中さんとはすれ遠いでしたね」と語るのは、遠藤忠孝さん。明治三十二年生まれのハ十四歳。終戦時は今の聖ヨゼフ病院の前身、海仁会病院副院長で海軍軍医大佐。安浦町一丁目にお住まいだった。長く横須賀文化協会理事長をお務め。お話は続く。 「でも私が軍医学校高等科学生の時、田中さんは学校長でしたが、私は大尉、田中さんは中将、直接お話する機会はありませんでした。口数の少ないお方ですが、海軍の中でも立派な人でしたね。私ども軍医は直接、間接を問わず田中さんのご指導を受けました。海軍病院は横須賀が最高の設備を誇っていました。別棟には軍人家族診療所も。ここには産婦人科がありましたが、市内の医師が担当しました。私は大正一三年に軍医学校を卒業、終戦までの二一年間は陸上、海上半々の勤務でした。終戦は海仁会病院で迎え、戦後しばらく聖ヨゼフ病院になってからも務めました」 遠藤さんは太平洋戦争の開戦時、ハワイ作戦に参加した航空母艦「翔鶴(しょうかく)」の軍医長。  ここで海仁会病院を説明しよう。昭和八年に実業家の星野錫らが海軍下士官兵家族の病院を計画、海軍も診療所の拡大を考えていたので意見がー致。十四年に五百万円を基金に海仁会病院が建設された。敷地は今の緑ケ丘の中腹、市役所庁舎と諏訪小学校の跡地が選ばれた。なお海軍病院は終戦時、士官百二十五人を含め約七百人が勤務。大部分の職員は医療器具や薬品とともに東京・目黒の雅叙(がじょ)園に移り、軍医学校や野比海軍病院の職員と合流、残務整理を受け持った。野比は戦後一時、復員患者収容所となり、その後は国立久里浜病院となった。
原本記載写真
楠ケ浦の海軍病院は、全海軍の中で最高のー設備を誇った。野比分院は独立、戦後は国立久里浜病院に。写真は、海軍病院の傷病兵を見舞う皇后陛下。右隣は、ご案内の田中朝三病院長(昭和1 1 年)=埼玉県坂戸市多和目6 4 田中夙(としこ)さん提供。

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