明治十七年(一八八四)七月に公郷(くごう)、深田、中里、不入斗(いりやまず)、佐野の五ヶ村に、戸調役場が発足した。初代戸長は石渡養泰。五力村の年間収入は四百七十六円七十五銭。内訳は地割(土地税)二百八十六円五銭、戸割(戸数割税)百九十円七十銭だつた。当時の人口は、これら上町地区の五力村でニ千五百人。そのー方、今の下町地区の横須賀町はハ千七百人ほど。
二十二年四月に五力村は合併、新しく豊島村が誕生した。翌年の人口は、豊島村がハ千三百人、横須賀町がー万七千人に。
五年間で豊島村が三倍、横須賀町が二倍に増えた。上町へと、人口増加の波が押し寄せたのである。
やがて明治三十六年。豊島村は豊島町となつた。横須賀町には「市制施行相談会」が発足したが、豊島町は合併の働きかけに難色を示した。理由は、@人口密度が違うし横須賀町ほどの社会施設は無理、A横須賀町の税金は高すぎる、B政党関係の対立=豊島町は政友会、横須賀町は自由党、のちの憲政会が主だった。
そこへ降ってわいたような話が。海軍関係者から、中学校や女学校設立の要望が出た。時すでに、県立中学校建設の見通しはあった。そこで女学校は両町共同で、ということになり、三十七年十一
月に、両町組合立女学校設立が決定。
横須賀町から鈴木太吉、浅葉長左衛門、板倉萬兵衛ら九人、豊島町から永島庄兵衛、川島喜之助、村野惣左衛門ら九人が組合会議員となって協議を重ねた。
その間、両町合併の話題も。三十八年四月に「横須賀町外(ほか)一力町組合立女子実業補習学校」が誕生した。校名が実業補習では、なじまないということで、翌年早々、高等女学校として再認可された。
女学校設立が取り持つ縁で三十九年に豊島、横須賀両町は合併、新しく横須賀町となった。
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