かつての久里浜村には、南北に走る三崎街道に沿って険しい山越えがあった。
野比との境、「しりこすり坂」と、浦賀との境、「久比里(くびり)坂」のニカ所。
今でこそ、マイカーなどで気軽に通過するが、それもさかのぼれば、先人の労苦のたまもの。
二つの碑が物語る。
しりこすり坂開さく記念碑ー京急三崎線を右に見て歩くと、左は市立神明小、神明中学校。
やがて左手、二bの土盛りの上に碑が建つ。
昔、この坂はあまりにも狭く急なため、尻(しり)を地面にすりつけて下りたというので、この名がついた、とか。
天保(1830〜1843)のころ、この開さくに久里浜の長島六兵衛が当たり、難工事だけに子孫が受け継いだ。
孫の安尚の時、三浦郡長小川茂周が共鳴、近在近郷の有志に協力を呼び掛けた。
碑の裏に、七十八人の名が刻まれてある。
工事は、明治十七年(1884)五月からー年半かかつた。経費五千円、延べ三万人が従事した。
浦賀港拓道碑ーしりこすり坂に劣らぬ急坂の久比里坂を開さく、浦賀との往来を容易に、という目的で、
東京の峯島茂兵衛が私財を投じた。明治四年である。
彼は、その功により翌五年、政府から銀杯を賜った。
峯島は、八幡久里浜の出身、十三歳で江戸へ出て、豪商となった人。
この久比里一ノ二六ノ一六の山林には、もうひとつ小さな碑がある。
峯島家が中心となり明治三十年、今の位置に移したことが刻まれてある。
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