石井 昭 著   『ふるさと横須賀』


戸田から横須賀へ @ 『ロシア船デ号沈没』
原文

嘉永七年(1854)十一月二十七日に、年号が安政と改められた。 「気象百年史」(昭和五十年刊)によると、「十一月四日、東海沖大地震津波、ロシア船ディアナ号下田で沈没。 翌五日、再び五畿七道に及ぶ大地震。このため安政と改元す」とある。 東北から北九州までを襲った大地震は推定マグニチュード八・四。 伊豆は壊滅状態に近かった。ちょうど条約交渉のために、下田港にいた木造帆船ディアナ号(二千d)が大破。 これには五百人のロシア人が乗っていた。 同号の提督ブチャーチンは幕府に、「われわれのディアナ号の修理をさせてほしい」と申し出た。 だが、幕府はこの申し出に当惑した。 というのはペリー来航の翌年であり、アメリカやイギリスと条約を結んだばかり。 ましてロシアは、フランスやイギリスとクリミア戦争の最中。 幕府は巻き添えの不安を待ったが、結果的には、それは取り越し苦労であった。 プチャーチンらが、長崎に来航の折、幕府の川路聖謨(かわじ・としあきら)らが応対した。 彼は川路を「国際級な人物だ」とほめ、川路も威圧的だったぺリーに比べ、人なつこいロシア人に好感を寄せていた。 ふたりは下田港で再会。 川路は西伊豆の戸田(へた)港での修理を許可した。 下田からの回航中、沿岸の漁船が手助けしたが、ディアナ号は沈没してしまった。 着の身着のままで上陸したロシア人を待っていたのは、村人たちの素朴な人間愛であった。 その中に、のちの横須賀造船所を支えた人々も。
原本記載写真
幕末、伊豆の下田を訪れ、わが国に開国をせまったロシアのディアナ号が沈没。代用の船づくりに当たった 伊豆の船大工たちは、やがて横須賀へ招かれた。 写真は、今は大半が米海軍横須賀基地となっている横須賀港

戸田から横須賀へ A『帰国用に帆船建造』
原文

「帰国用の帆船を造りたい」というプチャーチンの申し出に、代官の江川太郎左衛門と川路聖(かわじ・としあきら) は「西洋造船術を学ぶチャンス」と考えた。 伊豆には、優秀な船大工たちと豊富な木材があった。 造船に必要な三千両の建造費は、幕府の負担、そして船は、あとで返してもらう約束をした。 全員が帰国するまでの半年間、ロシア人五百人は戸田村に滞在した。 ようやく船体が完成、西洋式の本格的な造船だとわかると、幕府の態度は急変、戸田村へは幕府はもちろん、浦賀奉行所や 薩摩(さつま)、長州、土佐の各藩からも見学者が訪れた。 錨(いかり)は造ることができた。 しかし鎖ができない。松の根を焼いて木タールを作り、これを麻縄に浸透させたタール・ロープで代用させた。 帆船第一号は三カ月で完成。 幅三b、長さニ十二b、八十dである。プチャーチンは村人に感謝して「戸田(へた)号」と命名。 完成した六隻のうち、五隻は日本人が造った。 戸田村の船大工たち、そのうちの上田寅吉と鈴木七助は、長崎伝習所の第一期生に。 伝習所の生徒頭には勝海舟、二期生には榎本武揚がいた。 のちに、上田は横須賀造船所の技師長に迎えられた。 石原藤蔵、堤藤吉らは石川島造船所の技師に、緒明(おあき)嘉吉のニ世、菊三郎は東京へ出て、隅田川の渡し「一銭蒸気」を経営したのち「浦賀ドック」を 創設した。上町の緒明山にその名が残る。 横須賀造船所を支えた先人たちの子孫は今、上町などにお住まいである、という。
原本記載写真
横須賀に招かれた伊豆の船大工たちはその後は各方面で活躍されたという。 横須賀造船所はもちろん、石川島造船所や「浦賀ドック」などでも。 写真は、今の住友重機・浦賀工場。 造船界に大きな足跡を残している。

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