石井 昭 著   『ふるさと横須賀』

海軍大将井上成美 @ 『余生に英語塾開く』
原文

潮の香と、やわらかな日差しと、厚い人情に包まれた横須賀市長井町である。 京急バス停「漆山」に近い真宗大谷派、勧明寺わきのゆるやかな坂を上る。 丘の上、行き止まりの左手に、二本の煙突が立つ家がある。 ここは、昭和五十年十二月十五日に逝去された海軍大将、井上成美(しげよし)さんの自宅。 横須賀鎮守府に着任された昭和九年の建築だ、といわれる。戦後、井上さんは世に出ることを避け、 余生を過ごされたー方、子供たちの英語塾を。 当時の”塾生” の中から、次の二人にご登場願った。勧明寺の住職、藤尾良孝さん(四八)と、 龍崎知治さん(五十)=ともに長井町=である。まずは、藤尾さんから。 「むろん戦後のことですが・・・。近くの女の子が大将のお宅にお手伝いに上がりました。 農家の娘さんでした。その家で、いろりにあたりながら、大将は、じいさんに、こう話された。 『何か生計の道を考えなければ。研師(とぎし)でもしたいが、どうだろう』と。 じいさんは『この辺では自分で研ぐので、無理でしょう。むしろ英語を教えたら・・・』と話したそうです。 大将は『子供が集まるだろうか』、じいさんは『ボスタ』なら張ってあげましょう。土地の人にも話してみます』という訳で、塾が始まったそうです。 月謝は納めたか、どうか…。ただ、私の親と友達のおばあさんが代表で、年末に付け届けしたようです」 「大将は、よく長井中学校へ来ておりました。あのころ、町では学校ぐらいしか、行く所がなかったのでしょう。 大井英夫校長と、お話しされていたようです。私は二年生の時に、塾にお世話になりました。中休みには、おやつが出ました。 この辺では、お菓子などなかった。奥さんの後日談ですと、大将の持ち物を鎌倉へ持って行き、お金に換えてきた、とのことです。 『子供もかわいいが、海軍の軍帽だけは残してくれ』と、いわれた。今にして思えば、申し訳ないことをしました」
原本記載写真
昭和9年から横須賀市長井町の住民でもあった井上成美さんは、終戦の年に海軍大将になった人。 写真は、丘の上に今も残る自宅。近所の子供たちには、なつかしい井上英語塾でもあったところ=「井上成美」伝記刊行会提供

海軍大将井上成美 A 『寒天使って”印刷”』
原文

「中休みのおやつが楽しみで、英語塾へかよったようなものです」と、苦笑なさるのは、竜崎知治さん(五〇)=長井町=。 お話をうかがった。 「井上大将は、昭和七年に奥さんを亡くして以来、独身でした。戦後、身の回りの面倒をみる人が、 近くにあった大将の実兄の別荘で寝起きしながら、日参されたそうです。この人が後添いの奥さん、昭和二十八年に大将は再婚されました。 その奥さんは、丹精な人でした。いつも髪をきれいにして、和服姿でした。道ですれちがっても、香水の香りがしました。 子供心にも、高貴な人だった、と記憶しています。大将は、よく『荒崎』のバス停辺りに下りてこられ、八百屋や豆腐屋で買い物をされていました」 「大将は、器用な人でしたね。英語塾の印刷物は、こんにゃく版だ、いや寒天版だ、という人もいますが。というのは、 半紙半分の用紙に、おばけ鉛筆で文字を書く。それをパックのような器に流した、こんにゃくか寒天かの表面に写しました。 あとは、用紙をー枚ずつあてがって印刷したものです」 一般的には「こんにゃく版印刷」という、明治時代に行われた技法。こんにゃくではなく、テングサを用いた ”寒天版印刷”だつた。 伝記「井上成美」(昭和五十七年刊)では、こう解説される。 「荒崎海岸でとれたテングサを煮て白くさらす。これをもうー度煮つめ、溶かした液を、ほうろうびきのバット(平皿) に入れて冷やし、固めて平版を作る。一方、子供たちが『おばけ鉛筆』と呼ぶ、ぬらせぱ書ける紫色の鉛筆で、別紙に文字を書く。 これを原紙のかわりにして、冷え固まつた寒天に押し当て、文字を寒天に転写。その上にわら半紙をのせ、押しつけて静かにはかせぱ、 紫色に美しく印刷されたテキストができあがる。今もって、ほとんど変色していない」
原本記載写真
「井上英語塾」で配られたプリントは、明治時代に行われた「こんにゃく版印刷」の技法で、 井上成美さんのお手製のものだったという。写真は、自宅を開放して地元の子供たちに教える井上さん=「井上成美」伝記刊行会提供

海軍大将井上成美 B 『「三国同盟」に反対 』
原文

「最後の海軍大将」ともいわれる井上成美(しげよし)さんは昭和九年以後、横須賀市長井町荒井に自宅を新築、 戦後は、町民のー人として余生を送られた。海軍の要職にありながら、日独伊三国同盟に反対、戦後を予見しての海軍兵学校教育、終戦工作などに尽力。 その足跡に触れてみよう。 井上さんは、明治二十二年(1889)十二月九日、仙台市内で生まれた。父は嘉矩(よしのり)。 幕府直参、御勘定奉行普請役を務めた人。井上は、異母兄弟を含めると十一男。 兄の中には、土木学会長を務めた秀二、陸軍中将の達三、電力会社重役の多助・・・と、多彩な顔ぶれだった、という。 ここでは、明治四十二年に海兵を二番で卒業した井上の足跡を紹介しよう。 伝記「井上成美」(昭和五十七年刊)をひもとく。 明治42・11(19歳)海軍少尉候補生。練習艦隊「宗谷」乗組、艦長鈴木貫太郎大佐、第一分隊長・指導官高野(山本)五十六(いそろく)大尉、 指導官付古賀峯一中尉。
43・12 海軍少尉。
45・4 海軍砲術学校普通科学生。教官米内(よない)光政、山本五十六両大尉。
大正元・12(22歳)海軍中尉。(この前後、水雷学校普通科学生、「高千穂」「比叡(ひえい)」「桜」に乗組)
4・12 海軍大尉。
5・12 海軍大学校乙種学生、甲種学生に堀悌吉少佐。
6・1 原喜久代(20歳)と結婚、阿部信行陸軍大将の義妹、新居は東京新宿の借家。
6・5 海大専修(航海)学生。
6・12 「淀」航海長。
7・12 スイス駐在。
8・2 静子(しずこ)出生。
10・9 フランス駐在。
10・12 海軍少佐。
11・3 「球磨」航海長。 11・12 海大甲種学生、教官に古賀峯一中佐。
13・12 海軍省軍務局(第一課B局員)。
14・12 海軍中佐。
昭和2・11(37歳)イタリア駐在武官。妻喜久代発病。
3・8 高木惣吉少佐との出会い(パリで)。
4・11 海軍大佐。
5・1 海大教官。
7・11 海軍省軍務局第一課長。妻喜久代没(36歳)。
8・9 横須賀鎮守府出仕。
8・11 「比叡」艦長。
9・6 東郷元帥国葬への外国弔問使の接伴艦。キャプテン・二ミッツ(米)との出会い。横須賀・長井の自宅完成。

原本記載写真
海軍兵学校を卒業した井上成美さんが、初めて配属された練習鑑「宗谷」の艦長は鈴木貫太郎、指導官は山本五十六、 同指導官付は古賀峯一という顔ぶれだった。写真は、海軍中将時代の井上成美さん=「井上成美」伝記刊行会提供

海軍大将井上成美 C 『自らの進級に反対』
原文

長井町の荒崎でひとり静かに余生を送られた海軍大将、井上成美(しげよし)さんの足跡を続ける。 ひもとくは、伝記「井上成美」(昭和五十七年刊)。
昭和10・8 (45歳)横須賀鎮守府付。
10・11 海軍少将。横須賀鎮守府参謀長。
10・12 司令長官米内光政中将。
11・2 二・二六事件に機敏な対応策をとる。
11・11 軍令部兼海軍省出仕。兵科・機関科将校統合問題(一系問題)の研究に従事。
12・10 海軍省軍務局長。大臣米内光政大将、次官山本五十六中将。支郡事変処理や日独伊三国軍事同盟締結阻止に取り組む。
14・10 娘静(しず)子結婚(夫、丸田吉人軍医大尉)。支郡万面艦隊兼第三艦隊参謀長。
14・11 海軍中将。
15・9 (50歳)北部仏印進駐反対の進言。
15・10 海軍航空本部長。
15・12 孫、丸田研一出生。
16・1 「新軍備計画論」を海相に提出。
16・7 「海軍航空戦備ノ現状」を海相らに説明、対英米開戦の危険性を警告。
16・8 第四艦隊司令長官。
16・12 太平洋戦争開戦。
17・10 (52歳)海軍兵学校長。
17・11 第71期生卒業。
18・9 第72期生卒業。
19・3 第73期生卒業。
19・8 海軍次官。大臣米内光政大将、終戦工作を開始。高木惣吉少将に密命。
19・10 娘静子(しずこ)の夫、丸田軍医少佐戦死。
19・12 米内海相からの「大臣を譲る」「大将進級」の話を拒否。
20・1 (55歳)「大将進級二就キ意見」を海相に提出、自らの進級に反対。
20・3 次期首相に鈴木貫太郎を推す。
20・4 「日本ノ執ルベキ方策」を海相に提出、無条件早期講和を訴える。
20・5 大将進級を天皇御裁可。海軍大将、軍事参議官。
20・8 終戦。
20・10 長井町五〇七八番地の自宅に隠棲。
20・12 「井上英語塾」始まる。
22・4 研一、長井小学校へ入学。
23・10 静子没(29歳)。研一、丸田家へ。料亭「小松」のメイドに英語を教える。
28・6 市立病院に入院(胃潰瘍=かいよう)。秋に田原富士子(53歳)と再婚、「英語塾」閉鎖。
そして結びは。
50・12・15 (86歳)1975没(長井の自宅で)。
50・12・17 告別式(長井、勧明寺)。
51・1・31 追悼会(東京・原宿、東郷記念館)。
51・2・1 納骨(東京・府中市の多摩霊園)。
52・6・16 富士子没(77歳、横須賀・初声荘病院で)。

原本記載写真
昭和19年12月、「大臣を譲る」「大将進級」を拒否。20年5月、井上さんは天皇の御裁可で最後の海軍大将に昇進した。 写真は、戦後、横須賀市長井の自宅でギターを手にくつろぐ井上成美さん 「井上成美」伝記刊行会提供

海軍大将井上成美 D 『普通学重視を貫く』
原文

井上成美(しげよし)中将が海軍兵学校長を務めたのは、昭和十七年十月から十九年八月までだった。 着任した時の生徒は71、72、73期。73期は九百人を超えていた。十七年十二月に入校の74期は千二百人、 翌十八年の75期は三千五百人も。 生徒数の急増で、広島湾岸沿いに岩国分校が開校された。教官の確保も、苦労の種、特に、普通学と体育の教官は、 商船学校出身の予備士官をはじめ、一般大学から進んだ兵科予備学生出身者を充てた。 最優秀の大学生から選ばれた人たちだった。戦後、生徒が大学に進学した際、 教授の中にかつての教官を発見、引き続き師弟の交わりを結んだ、そうな。 戦争が激しくなると、教育期間の短縮ばかりか、教育内容にも要求が続出。特別措置として、 普通学を減らし、軍事学と訓練を主とし、卒業後すぐ前線で役立つように、というのだった。 だが、井上校長は、あくまでも普通学重視の教育方針を貫かれた。 この方針は、終戦まで続けられる。 ちなみに、兵学校の全生徒数は、井上校長の着任時は二千百人、退任時には四千四百人。 栗田健男校長の終戦特には、ー万五千三百人、江田島の本校のほかに、分校が岩国、大原、機関学校だった舞鶴、 そして針尾の四カ所あった。 話を戻そう。井上校長は着任早々、気になったのは「生徒が朝から晩まで、こせこせと走り回ってばかりいる」ことだった。 団体行動ならいざ知らず、個人行動でも腕を振り上げて歩く。手の動きから足の運びまで規制されていた。 戦後、教え子たちに、こう語られたという。「下士官や兵ならいい。人から命ぜられて、人の指図で働くには、ああいうのが最良の部下なんだ。 しかし、士官というものは、何を、いかに、いつ、どこで、どうすべきかを、自分で考えて決定せねばならない。 つまり、士官にとって、自由裁量が大切だ。生徒に、家畜みたいな生活をさせてはいけない。そう思いました」。
原本記載写真
海軍兵学校に着任した井上成美校長が気になったのは「生徒が一日中こせこせと走り回ってばかりいることだった」とか。 写真は、71期卒業生を見送る井上校長(左端)昭和17年11月14日=「井上成美」伝記刊行会提供

海軍大将井上成美 E 『英語塾生は125人に』
原文

昭和二十六年十二月十日付の東京新聞に、井上成美(しげよし)さんが紹介された。 見出しは、「ギターを弾く老提督沈黙を破る 無心の子供が生命 淡々語る軍備の核心 一人往(ゆ)く孤高の道」。 本文のー部は、次の通り。 「場所は三浦半島の南端、横須賀市長井町新井、土地の人が箕輪と呼んでいる小湾の崖 <がけ>上にぽつんと立った 陋屋(ろうおく)、きょう九日の誕生日を迎えて満六十一歳になる井上氏は、さすが海軍部内でその人格識見を諺(うた)われ、 艦隊長官として麾下(きか)に号令しただけあって毅然とした高僧のような面持ちではあるが、深い年輪の刻み込まれた双頬(ほお)には廿年前に夫人を 喪(うしな)い、只(ただ)一人の愛娘の夫君をも戦死させた孤独の影が見え、その居間兼客間に雑然とおかれたヤ力ン、魚を焼くアミ、 空力ンにー人暮らしの不自由さが偲(しの)ばれた。 机の上には手作りの本箱に廿数冊の英仏の原書が並べられ、昔の雄姿を知る人には余りにも質素な侘(わ)ぴ住居、ただキ章を取った帽子だけが、 わずかに海軍生活の名残りを偲ばせるだけだった」 井上さんが語られた当時の心境も載っている。 「本当に不自由な所だが近所の子供達が遊びに来てくれるので、それだけが楽しみだ。たったー人の私は貧乏だが、純朴な子供達が本当の子供にも思え、 夜になるとみんな【家に帰って】寝てしまってから静かな【人生をやっと過ごせるようになった】んだと自分で自分の心にいいきかせている。 まあ世捨て人でもなし、ただの俗人というところだ。再び世の中へ出るという話もないわけではないが、もう骨董(とう)品の私には、 世の中へ出る気持ちもないし、また、出たとしても何も出来ないだろう」。 英語塾は、井上さんの自宅で、昭和二十年十月から、胃潰瘍(かいよう)で入院されたニ十八年六月まで行われたようだ。 塾生だった藤尾良孝さん(四八)=横須賀市長井町=がまとめた「元井上英語塾生名簿」によると、 お世話になった子供たちは、百二十五人になる、という。
原本記載写真
終戦6年後「ギターを弾く老提督沈黙を破る・・・」と井上成美さんが新聞に紹介された。 写真は、「子供達が遊びに来てくれるので、それだけが楽しみ」と語る井上さん(昭和26年12月、横須賀市長井町荒井の自宅で)

海軍大将井上成美 F 『人間教育を目指す』
原文

今でこそ便宜上、「英語塾」とか「井上英語塾」と呼ぶが、当時の子供たちはただ「英語に行く」、「ミスター井上の所へ…」といっていた、そうな。 伝記「井上成美」(昭和五十七年刊)をひもとく。 「雨の日に子供を家まで井上に送ってもらった、ある母親は、『元大将』がわざわざ送ってくれたもったいなさに恐縮した。 『元大将が送ったのではなく、井上個人がお送りしたのです』という井上の言葉に、その母親は安心をしたものの、 お礼をしたくて仕方がない。後日、卵を手に入れて届けたところ、井上は受け取ろうとせず、母親を困らせた。 そのうちに人々は、品物を井上に届けるには直接、手渡すことを避け、そっと井戸のふたの上に置いてくる、というような知恵を働かせるようになっていった」 クリスマスには、近くの市立長井中学校の講堂で、英語塾のパーティーが開かれた。”誕生”の親たちが招かれ、ささやかなお菓子を食べながら、 賛美歌の合唱や英語劇「シンデレラ」を楽しんだ。 井上さんは、琴で「六段」を演奏、拍手かつさいを浴びた。 ”塾生”の中には、高校生になってからフランス語や代数を教わった子、また、ギターやアコーディオンの手ほどきを受けた子もいた。 「音楽が上手になると、大将のギターをひける」とか。兵学校長時代に考案された「数学パズル」を学んだ子もいた、という。 井上さんは、教科だけでなく人間教育を目指した。玄関でのはきものの脱ぎ方から、おやつの時間には食事のマナーを教えた。 正月には、子供たちにとつて、生まれて初めてのナイフとフォークを使ったテーブル・マナーの指導も。 自宅に近い市立長井中学校の卒業式に、来賓として招かれた井上さんは、最後まで、式場に残って卒業生を見送られた。 長井中といえば、校内新聞「長井中学新聞」に、「世界の国めぐり」を寄稿。 昭和二十七年五月二十日発行の第七号には、「第四回ー伊太利の巻」が、紙面を飾っている。
原本記載写真
「英語塾」 では玄関でのはきものの脱ぎ方から、おやつの時間には食事のマナーも学んだとか。 写真は、自宅近くの市立長井中学校で開かれたききのクリスマス・パーテイーでタクトを振る井上成美さん(左端)

海軍大将井上成美 G 『別荘寄付とりなす』
原文

「昭和二十三年十月十六日でしたか。ー人娘の静子(しずこ)さんが亡くなられたとき、井上大将は静子さんのまくら元で、百七十円ほどを出されたそうです。 『これしかないが土地の風習に従って葬って下さい』。この辺りでは、ご不幸があると組の人たちが必要なものを持ち寄るのです。 お葬式には、みんなでお手伝いしました」と語るのは、井上英語塾の”塾生” のー人だった龍崎知治さん(50)=長井町=。 お話をうかがう。 「大将は、時間にきびしい人でした。奥さんが帰宅する時間を告げて、買い物に出られると、必ずその時間に門に立って待っておられたそうです。 そう、そう、大将のお兄さんの別荘が近くにありました。大将の口聞きで、地元に寄付して下さった。 移築されて、今は荒井の町内会館になっています」。 会館は、京急バス停「荒井」わきにある。三十坪(約百平方b)ほどの平屋で、部屋はニつ。 一間(約一・八b)幅の回廊は見事。天井に面影が残る、という。 前の横須賀市長、長野正義さんの書「松柏之操」が目に止まった。 再び、龍崎さんのお話。「戦前、特に横須賀鎮守府の参楳長時代は、おみえになったそうです。 自宅に近い坂の上に、庚(こう)申塔がありますでしょ、あそこまでお迎えの自動車が登って、タイヤを側溝に落としたことも・・・。 近所が総出で、車を持ち上げました」 「大将の目はするどかった。あれは、といっては失礼ですが、普通の人の目ではない、と思いました」 同じ”塾生”だった勧明寺の住職、藤尾良孝さん(48)=長井町=にもうかがった。 「大将は、夏など半ズボン姿にステッキで、散歩されていました。ごあいさつすると、二コッと笑って・・・。 私のようなはな鼻ッたれ小僧にも、ちゃんとあいさつされました。忘れもしません、昭和二十八年の秋でしたか。 再婚なさる時、私の寺へおニ人でこられ、前の奥さんのお経を上げてほしい、と申し出されました。 ご自分にきびしいお方でした」。
原本記載写真
「大将の目はするどかつた。あれは、といっては失礼ですが、普通の人の目ではないと思いました」とは、 龍崎知治さん=横須賀市長井町。写真は、丘の上の井上さんの自宅。海側の庭から写したもの

海軍大将井上成美 H 『86歳で生涯閉じる』
原文

戦後、天皇の「井上はどうしているか」とのお言葉で、侍従の方が長井町へ。 井上さんは「私はご用のすんだ者です」と、いわば玄関払い。それでも、待従は居続けて、生活のつましさをごらんになって帰られた。 井上さんを訪ねたのは、昔の部下ばかりではなかった。当時、進駐軍とも呼ばれたアメリカの若い海軍士官が「アドミラルの話をうかがいたい」と、 訪ねてきた、という。靴を脱いで家に上がる習慣のない彼らのために、井上さんは、ゴザを巻いて立てかけておいた。 再び、勧明寺の住職、藤尾良孝さん(48)=長井町=のお話。 「戦後しばらくは軍人恩給がなかったでしょ。身の回りの品は、生活の糧や英語塾のおやつ代になったとか。 手もとに残ったのは海軍の帽子だけ。毎年、終戦記念日には、その軍帽をかぶってベランダのいすにすわりー日、海を眺めながら腹(めい)想にふけっておられた。 この日は食事をとらず、お茶だけだったそうです。戦後は、謹慎蟄居(ちっきょ)、門からお迎えするお方は一人もおらない、というお気持ちでした」。 井上さんは、昭和五十年十二月十五日に亡くなられた。八十六歳だった。 告別式はニ日後、長井町の勤明寺で行われた。 井上さんは今、東京都府中市の多摩霊園二十一区一棟三側にある「井上家の墓」で、先妻の喜久代さんを右に、 後妻の富士子さんを左に、静かな眠りを続けている。 ここで、告別式の後日談をーつ。 北海道からはせ参じた人がいた。その人は戦前、井上大将の命をねらっていた右翼のー人だった、とか。 戦後は、自分の考えが間違っていたことを知り、出直しのために北海道へ渡った。開拓に励んだが、疲労が重なって病院で療養中、 大将の逝去を知った。ベッドに伏す身、医者の止めるのもきかず、「焼香のできる自分ではないが、せめて霊前でおわびを・・」と、 勧明寺の門をくぐった、そうな。
原本記載写真
井上成美さんは昭和50年12月15日に86歳で亡くなられた。墓は、東京都府中市の多摩霊園にある。 写真は、その2日後に横須賀市長井町の勧明寺で行われた告別式=「井上成美」伝記刊行会提供

海軍大将井上成美 I 『教え子が伝記刊行』
原文

東京都新宿区である。地下鉄丸ノ内線の「新宿御苑前」近くに「古鷹ビル」が建つ。 ピルの名は、広島県江田島にあった海軍兵学校ゆかりの古鷹山から拝借した、という。 ビルのー室が「井上成美」伝記刊行会事務局。机を並べるのは、海兵七十三期の深田秀明さん(60)と岩田友男さん(60)。 株式会社秀明社や古鷹商事の経営のかたわら、伝記編さんに努められた。 おニ人とも、海兵を昭和十六年十二月に入校、十九年三月に卒業。そろつて霞ケ浦航空隊の練習機教程へ。 ”赤トンボ”で腕を磨き、次いで百里ケ原航空隊の実用機教程へ。 横須賀航空隊での試作機「流星」乗り組み中に、終戦を迎えられた。 お話をうかがった。 「伝記ですか。井上校長と接した七十一期から七十五期、それに、後輩の七十六期から七十八期までも加わって刊行しました」 「取材で長井町を訪ねた折、英語塾に通った人たちに集まつていただいた。驚きましたね。五十歳前後の皆さんが、どなたも目が輝き、 礼儀正しいのです。短い期間でも、子供のころに、大将の薫陶を受けただけはある・・・。 松下村塾と同じだ、と思いました」 お話は尽きない。ふと、目にとまったのは、中佐時代の胸像。これはイタリア駐在武官として渡欧中、出会つた彫刻家、日名子実三さんの作。 井上さんから”永久保管” された。ほかに、イギリス製の望遠鏡や、話題の「頒(しょう)聖恩」と刻まれた短剣も。 ちなみに、井上校長に見送られて出陣した深田さんら同期は、「海兵第七十三期クラス会会報42号」(昭和六十年刊)によると、 「九百一人中、戦死二百八十二人、戦後の死亡七十二人、健在な方五百四十七人」とある。  横須賀市長井町。丘の上の「海軍大将井上成美」宅の庭に立つ。この辺りの尺土(せきど)寸地も愛された面影を偲(しの)ぶ。 正面に遠く伊豆の大島、左下の岬に長浜、三戸、諸磯と続く。眼下は、白波くだける荒崎海岸である。
原本記載写真
伝記中の伝記と評価される「井上成美」は、980ページの大作。海兵71期から78期までの人たちによって刊行された。 写真は、横須賀市長井町の自宅前に立つ井上ご夫妻(昭和44年ころ)=「井上成美」伝記刊行会提供

寄稿・補稿欄
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参考文献・資料/リンク
横須賀市市立図書館
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